ちょっと気付かされる、「そうなのか!」と思わせてくれた一冊。日本で世襲が今でも有力な理由、それは家、家系が重要視されてきた歴史があるからだという。言い方を変えると、能力よりも人物が持つ出自が大切にされるのが日本歴史での大原則だと。
日本史の中では中国の律令制度は取り入れたのに、優秀な官僚を育てる科挙と時代とともに王朝が変わっていく易姓革命は取り入れなかった。古代から続く天皇家を権力の象徴的な頂点とし、古代権力を握るのは土地の権利を持つ貴族で、その後は実際にその土地を管理している在地地主たる豪族、それらが武士となり鎌倉時代からは土地を安堵することで主従関係を結ぶ武士集団となる。日本社会は、万世一系と言われる天皇・皇族を頂点とするが、古代の藤原氏を始祖とする貴族が土地権利を掌握したあとは、武士階級が土地の権利を掌握し、その土地から得られる収穫物を税として掌握していくのが12世紀に始まる鎌倉から19世紀の江戸時代まで継続した。社会変動の母体となるのはその間、武士階級であり、武士たちは古代の氏という単位から、領地の権利を管理する概念として家という管理とその権利掌握単位である家の概念を確立した。主従関係の単位も家、家を守るための養子による世襲も進む。それは長子継承の原則を持つ世襲の社会意識でもあった。これはイギリスの階級社会やインドのカースト制度いずれとも異なる独自の世襲社会である。
律令制度は天武、持統朝で成立し土地を管理し徴税する仕組みを作り上げようとしたが、文字、計算、土地支配と管理をする能力を持つ官僚は存在しないため、中国のような律令制度は運用できなかった。古代社会では武力での支配はあるものの、土地や海、山からの収穫物や労働力を税として徴収する仕組みを運営するのは世襲で繋がる氏族であり、各氏に与えられた役割に従い運営される社会であった。藤原氏が娘を天皇になる王子と結婚させ摂関政治の仕組みを作り上げたが、それを可能としたのは「招婿婚」を利用した家族のあり方。氏は世襲で継続するが、家族は人の命とともに失われる。そこで家、家系と外戚という仕組みで院政、上皇という支配のしくみを生み出す。
日本最古の貨幣は和同開珎と教わったが、実際にはほとんど流通させられず、全国的に流通した最初の貨幣は大陸からもたらされた銭だったのではないかという。律令制度も日本社会には適合でききれず、多くの令外の官が生み出され、換骨奪胎がすすむ。公地公民という建前も、院政期の上皇自身が荘園を皇族の支配下に置き、有力な寺をトンネルにして寺が寄進を受ける形での土地支配を進めた。院政が律令制度を破壊し、荘園制度を土地支配のしくみとする。支配する氏が家となり、これが日本中世の始まり。
荘園管理の職の体系では、現地で土地の管理をするのが下司と呼ばれた在地地主で、国司からの徴税要求を避けるため、領家と呼ばれる有力な貴族や寺社に寄進を行う。その領家もまた、本家と呼ばれた皇族や摂関家に保護を求めたので、東国を中心とした土地の管理体系は、本家、領家、下司という三層構造を形成した。在地地主は農民指導、管理、保護、徴税を行い、徐々に武装勢力としての武士化が進む。中世の階級間の諍いは、名目的な各国の知行国主たる領家と在地地主の戦いであり、東国の農地開拓が進むほどに、在地地主の徴税に対する不満は高まる。これを解決したのが源義朝・頼朝であり、保元・平治の乱、源平合戦などを経て承久の変で領地安堵の仕組みを確立していく。1185年には全国に守護と地頭を置くことを後白河法皇に認めさせ、実質的な東国支配を始めたのが承久の乱を終えた13世紀前半。
頼朝は征夷大将軍の地位を二年で返上、その後の頼家、実朝は暗殺され、将軍職は単なる象徴とみなされたのか、それ以降の将軍は京都摂関家と皇族から迎えられる。日本史ではここまでが源頼朝もXXのXXと呼ばれる氏族で、ここからは家が成立したので北条時政などと名字と名前が続けて呼ばれる。政子の実家である北条家は将軍家に代わり実権を持つ執権と呼ばれるが、最初のうちは北条本家が担い、泰時の子が早逝したことを機に北条時頼の本家である北条得宗家が実権を握る。日本社会は、権力的には象徴的でしかない天皇と朝廷が京にあり、実質的な権力者であるはずの鎌倉将軍家も象徴的な地位としてみなし、執権であるはずの北条家でも、実権は得宗家が握るという、まことに分かりにくい多層構造を取る。北条家はいくら朝廷が認めても決して将軍とはならなかった。明確な理由はわからないが、筆者はいくら象徴的とはいえ、地位は争いの原因となるから、という見方をする。鎌倉時代は権力争いが一番激しい時代だった。
しかしその象徴将軍であった頼経を担いで名越朝時、三浦光村が北条家と対立、朝廷でも先の上皇後嵯峨上皇と先の関白九条道家が対立。結果は北条本家の時頼が名越朝時を失脚させ、頼経を解任。地位に対する期待が低すぎて着任ルールが不明確になりすぎたため、力を蓄えた誰でもが地位を目指し争うためではないかと分析する。朝廷で生み出されたルールは、摂関家、大臣家、羽林家、名家それぞれに定められた大臣、大納言、中将、少将などの役職に世襲により就任するというもの。
その鎌倉幕府も滅ぼされたというより自滅する。鎌倉幕府を支えた関東武士の基本は、御家人の忠誠に対する所領安堵だったはずだが、その時代になると開発可能な土地にも限界があり、外敵である元寇との戦いで活躍しても、恩賞に与えられる略奪土地がないという問題も発生。御家人たちの不満は募る。幕府は徳政令を出すなどして御家人不満解消に努めたが解決には至らない。幕府と御家人との信頼関係が揺らぐ中で、尊氏を抱えた後醍醐天皇の建武の中興が成功する。建武の中興とはいっても、足利氏に守られて天皇家は存続し、朝廷もある意味安泰、中国のような天下の仕組みが転覆するような易姓革命は起きない。本家、領家は京にあり、在地地主は武士に守られて現地にいる、という形態は室町時代にも変わらずにあった。逆に言えば、天皇という象徴なしには尊氏も土地支配、領地安堵は行えなかった。こうした意味では、江戸幕府も土地支配のしくみは安堵だったが、支配の源泉に天皇の権威を必要としなくなっていた。この変化を起こしたのは秀吉の太閤検地がきっかけ。その視点からすると江戸幕府の始まりは、関ヶ原の戦い後、土地を家康自身が行った1600年となる。
明治維新は、こうした土地支配と管理の仕組みを世襲から切り離し、能力主義に切り替えた意味から画期的。それでも、日本国では、人口が増加し、国内市場だけでも全国民が食べていけるだけの最低限の需要と供給バランスが成り立つ国であるという状況は江戸時代から現代まで続く。平和な時代が続く平成から令和に、政治家に世襲が続くのは当然なのかもしれない。本書内容は以上。
各国首脳に混じり、堂々と振る舞える政治家は世襲、という現実が、失われた30年、寸詰まり経済の日本を象徴しているような気もする。