意思による楽観のための読書日記

古代の地形から「記紀」の謎を解く 嶋 恵 ****

この本の筆者、素人の歴史好きだ、ということだが、とっても面白い視点。卑弥呼の時代の大王は誰だったのか、魏志倭人伝に出てくる有名人や邪馬台国のことがなぜ古事記、日本書紀に出てこないのか、蘇我馬子、蝦夷、入鹿は何者だったのか、古事記、日本書紀の記述の曖昧な部分と大化の改新(乙巳の変)の関係は、など、あくまで推理の積み重ねであり、もちろん実証はできないが以前から不思議に思っていたことに新たな見方を提供してくれた。筆者のブログは次の通り。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/ 

まずは、古代の地形、縄文時代には海が関東平野の奥まで入り込んでいた、という話は聞いたことがある。それでは近畿地方はどうだったのか。弥生から古墳時代、邪馬台国の時代にはどうだったのか。今より30mから60mも海水が陸地に入り込んでいるとすると、奈良盆地も多くは海、山の辺の道はその海沿いに作られた道だと考えられる。現存する古墳群も海の際に作られたものが多いという。具体的に+60m水位を地図にしてみると、生駒山と信貴山が若草山から奈良の北部を伝って伸びている半島のようになり、奈良は北は若草山から南は樫原市や桜井市、天香久山東は天理市、西は二上山、葛城市までが湾になり、細い水道のように香芝市と柏原市の間を海が入り込んでいる。奈良の北は木津から田辺、城陽、宇治、そして伏見までが入江になり現在の大阪市街地のほとんどは海である。同じように博多から太宰府、久留米、有明湾あたりも+60m水位で見ると、博多から太宰府、久留米までずっと海がつながっていて、白村江の戦いで敗れた天智天皇が築いた水城、元寇を防ぐために作られたという土塁は太宰府から筑紫野市にかかる海の上の橋のような位置づけになる。魏志倭人伝の頃の地形がこうであれば、陸行、水行という記述が別の意味を持ってくる。そして親魏倭王の金印を大国であった魏の国が邪馬台国王に送ったとすれば、それは破格の待遇であり、邪馬台国は北九州にあった、と考えるのが筋だという。邪馬台国大和説の根拠である箸墓古墳は考古学的には350年ころの築造とされ、248年に死去したとされる卑弥呼の墓ではない、というのも筆者の主張である。当時の地形からこうした推理を巡らす、これはひとつの見方である。

そしてその時代に稲作や製鉄技術をもった大陸からの渡来人が日本列島に海沿いに入ってきた。日本列島の先住民は縄文人と狩猟民族。混血もあったが、多くは山の中のサンカの民や、蝦夷地、琉球に追いやられていった。現在の日本人はこうした縄文人と弥生文化をもった渡来人の混血であり、渡来人達は何波にもわたって半島や中国大陸から日本列島に移り住んだ。百済の王子・昆支(こんき)が百済への支援を求めて日本に来たのは5-6世紀ころ。地質から見ると、北九州にあったとされる奴国は縄文時代に起きた鬼界カルデラの大噴火の影響が少なく、水田耕作に向いていたことから朝鮮半島南部の加羅系の人々が作った国であり、南九州にあったとされる狗奴国は騎馬民族であった百済系の人々が作った国であった。先住民であった隼人族とは婚姻関係を繰り返し勢力を広げていった。これが古事記の海彦山彦物語で語られる話であり、日向神話は狗奴国を作った天津族が大和朝廷を開くまでの歴史を神話にしたもの、という推察である。この狗奴国勢力に対抗しようとしていたのが卑弥呼の邪馬台国で、後ろ盾を得ようとした卑弥呼は魏に朝貢した。一方百済は呉に朝貢、百済、呉、狗奴国が結び、邪馬台国と魏の勢力と戦っていた。その後、魏が249年クーデターで滅びたあと、270年年ころに邪馬台国は狗奴国に滅ぼされた。つまり、このころの日本の歴史は朝鮮半島や中国大陸と一体となり進んでいることを認識できなければ説明できないという主張である。

古事記と日本書紀の記述が不明確なのはこうした歴史を編者が自分の都合の良いように書きたかったためねじ曲げられたためであり、神功皇后の東征や実在しない神武天皇以下の記述を、中国側の記述も意識しながら整合性を崩さないように工夫して書かれた、という推理である。先ほど登場した昆支は隅田八幡人物画像鏡銘文から推察すると、これが倭の五王の武、応神天皇と見られる人物であり、オホド王(後の継体)は倭王・興の息子で義弟で、応神の五世の孫で越しの国から連れてきた、などというのは嘘であるという主張。理由は、河内王朝であった崇神から始まる垂仁、倭王・讃、倭王・珍、倭王・済、倭王・興つ続いた王統が倭の五王の最後の武で、百済からやってきた昆支に代わったことを隠すためであった。倭の五王がどの天皇に当たるのかが特定できないのは、古事記の歴史の水増しのせいであるとする。そして、日本書紀は応神の在位を200年ほども繰り上げて欽明を継体の子どもとすることで、応神と欽明との関係を隠し、欽明の子・孫・ひ孫は応神系の大王であった蘇我馬子、蝦夷、入鹿であったのに、それを臣下の豪族であったかのように記述した。つまり蘇我馬子、蝦夷、入鹿は大王(天皇)だったというのである。聖徳太子、崇峻、推古などは架空の人物であり、子孫を残さず死んだことになっているのは蘇我氏の家系を臣下の家系として隠すためであった。馬子の孫、石川麻呂の娘は3人共天皇妃になっており、石川麻呂の弟の娘二人は天智、天武の妃になっている。つまり馬子の子孫は称徳の代までずっと天皇になっていて、蘇我氏が単なる豪族の一つであるはずがない、という推察である。聖徳太子、崇峻天皇、推古天皇などの架空の人物が活躍したように記述したのはそちらに目をひきつけ、蘇我氏三代として隠した実際の天皇の系譜に目が行かないようにさせるためであったと。聖徳太子陵にある3つの石棺はこの三代の大王の棺ではないかという推理もある。さらに、名前が不自然なのは、存在した事実を隠ぺいするためで、馬子は実際には欽明の息子アメノタリシヒコであり、蝦夷は欽明の孫で漢の皇子と記された倉麻呂であり、入鹿は倉麻呂の息子、石川麻呂である、というのが筆者の推察である。不自然な名前、子孫がいない、などは記紀が事実を隠すためにこしらえた架空の人物だから、という推理である。欽明の子孫で敏達から用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武までの天皇は実際には、蘇我馬子、蝦夷、入鹿、古人大兄皇子、天智、天武と続いていたのではないかという。

他にも中臣鎌足の出自は鹿島、不比等の捏造、アマテラスとスサノオの関係、などなど数多くの面白い推理があるので、関心がある方はぜひ読んでみてほしい。

地名の謎にも言及していて、私も前から気になっていた佐久地方になぜ海がつく地名が多いのかということ。小海線沿いには海ノ口、海尻、小海、海瀬、新海神社、海野など、標高700mの佐久盆地になぜ海の地名が続いているのか。まず佐久という地名はこの地を開拓した神、オオハギが新開(にいさく)の神ともいわれ、開が佐久となり新開が新海神社となった。神社のある田口は田が初めて開かれた地だからだという。そして諏訪湖と同様、この佐久盆地にも火山噴火で堰き止められてできた幾つもの大きな湖があったとのこと。


読書日記 ブログランキングへ

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事