鎌倉幕府成立後の頼朝と時政、義時、時房、泰時、そして梶原景時や和田義盛、比企氏など鎌倉殿の13人を巡る暗闘は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で詳しく描かれた。当時、背景を知るために「考証 鎌倉殿をめぐる人びと」を読んだ。当時の事情をよく表すとされる北条氏が編纂した吾妻鏡では、北条得宗家の執権としての正当性をしっかりと示しておく、ということが歴史書としての役割だった。しかし事実に反することは記述はできないため、都合が悪いことは記述しない、という方策がとられた。初代頼朝を偉大な将軍、二代目頼家は暗愚、三代目実朝は京風で頼りなく不吉な将軍と描くことで、頼朝の政道を正当に継承するのは北条得宗家であると強調したかった。吾妻鏡には重大事件である頼朝の死の前後記述がない。娘である大姫の急逝による入内失敗、頼朝の死、その後義時に殺害されることになる頼家の鎌倉殿継承など不都合なことを書き残したくなかったとされる。三代将軍実朝暗殺後の3か月半も記述が飛んでいて、幕府内混乱の実情を残したくないのが理由だったと考えられる。本書は、その他の文献、貴族の日記、寺社の記録、系図、軍記物語、慈円の愚管抄、説話集にも目を配り、吾妻鏡を相対化して評価、実朝暗殺の背景と実際のところを探った一冊である。
日本史上最初の武家政権である鎌倉幕府の初代から三代目を「源氏将軍」、4代、5代は摂家将軍、それ以降9代目までを親王将軍と呼ぶ。三代目実朝が右大臣就任拝賀のために訪れた鶴岡八幡宮の境内で、兄の頼家の子であり甥でもある公暁に殺害され、公暁も誅殺されたため、源氏将軍の承継者がいなくなったことが断絶の原因。公暁以外にも頼家の遺児はいた、また源氏の血を引く大内惟義、足利義氏、武田信光、摂津源氏の源頼茂などもいたはずなのに彼らは将軍とはなれなかった。つまり関東における武士団や鎌倉殿の御家人たちを束ねていたのは「源氏」ではなく頼朝の血筋だったのだろうか。義時や政子の思惑や朝廷後鳥羽との関係、鎌倉殿の御家人たちの力関係を知ることが必要となる。
こうした背景を知るために重要なことは、歴史で学ぶ「鎌倉幕府の成立」は頼朝に率いられた関東武士団が平氏に勝利して、頼朝が受領や国司任命権を獲得し、征夷大将軍に任命されたことでは確実に成就できたわけではなかったことを理解すること。平安時代まで延々と権力を握り続け、荘園の権利や官位、官職の任命権を握り続けてきた朝廷の力と一時的に武力で権力をもぎ取った関東政権との力の差、つまり京と鎌倉以外の勢力に対する影響力の違いは依然大きかった。そのことを一番知っていたのは頼朝であり義時、そして実朝だった。そのため彼らは権威を示すシンボルである官位、官職を得ることを重視した。
朝廷での官職と官位、太政大臣という官職には正一位もしくは従一位が相当。左大臣、右大臣、内大臣は正二位か従二位、大納言は正三位、近衛大臣は従三位など。従三位以上が公卿とされ、1190年時点で官職をもつ公卿が28名、任官していない公卿が22名。現代であれば大臣、副大臣クラス。頼朝は公卿の権大納言と右近衛大将に補任され、鎌倉でも「さきの右近衛大将政所」を名乗ることで東国でも権威を示せた。執権義時は相模の守で従五位下に補任されたのち、最終的には従四位下で陸奥守となる。和田義盛は六位相当の左衛門尉、大江広元は正四位下、東国武士も官職と位階を欲しがった。実朝は最終的には正二位、義時の従五位下と比較すると比べるべくもない、内裏に行けば近づくこともできないくらいの差がある。
1203年には阿野全成謀反の咎で誅殺、頼家が発病し、クーデターを企てた比企能員は時政に誅殺、頼家の子一幡も誅殺された。頼家が死亡して源氏継承をすると決まった1203年には12歳、後鳥羽から「実朝」という名を授かり従五位下、征夷大将軍に叙任した。この時点で初めて鎌倉殿継承と除目任官が結びついたのである。その後1205年に正五位下、権中将となり、摂関家のみに許される「五位中将」となって鎌倉将軍が摂関家並みに扱われた。後鳥羽としても武力を持つ東国政権に対する影響力をいかにして維持するかが最重要事項だった。実朝の御台所には近臣坊門信清の娘信子で、信清は後鳥羽の母の弟であり信子は後鳥羽の従姉妹となる。実朝政権の実力は、吾妻鏡によるように「京風で頼りない」ものではなく、義時と政子の力を借りての出発ではあったが、年を経るごとに充実した親政を行う、尊敬される為政者となった。
最終的な官位として実朝が得られた右大臣は武家では到底到達できないと考えられていた高い地位。太政大臣が名目的なポジションだったことを考えると左大臣に次ぐ朝廷でのナンバーツー、征夷大将軍を超える最高位とも思えた。後鳥羽にとっても自分の子が東国政権の将軍となれば、その子も次代将軍。つまり将軍外戚として後鳥羽自身が影響力を行使できる。
何年たっても実朝と信子の間には子ができず、実朝は勧められても信子以外の妾を設けることを承知しなかった。実朝にとっては、継承者となるには都における地位が必要であり、朝廷による承認が得られることが最重要だったが、都から妾を迎えることは後鳥羽への失礼、東国武士の娘では地位不足。実朝が画策したのは後鳥羽の息子である親王を鎌倉に将軍として迎えること、そして後鳥羽としてもそれが寺社、朝廷政治、東国の軍事政権という三つの権門を治天の君としてコントロールするという思惑だった。それは軍事政権のリーダーには源氏直系以外の政権継承はできない、と考えていた義時、政子にとっても親王ならば十分な政権継承者となれると思える案だった。しかし実朝暗殺により後鳥羽、義時、政子、関東御家人たち、すべての思惑は潰え去る。
暗殺実行者の公暁、1205年には鶴岡八幡宮の別当尊暁に入室、1217年、園城寺に入っていた公暁は鶴岡八幡宮別当の死亡に伴い別当に就任していた。1218年に右大臣に就任していた実朝の拝賀を祝う役割として、皮肉にも公暁が別当として当たることになる。公暁の思いは屈折していた。義時は親の仇、実朝は本来自分が継承するはずだった将軍職を棚からボタ餅で手に入れた憎き相手だった。乳母夫だった三浦義村を味方につけられれば、実朝、義時暗殺後の手配も可能だと考えたに違いない。
実朝暗殺に関東御家人たちは動揺し80人以上が出家したという。後鳥羽としても信頼する実朝を守れなかった鎌倉政権に怒り心頭。実朝暗殺後も親王の鎌倉下向を求める義時に対し、後鳥羽は断固拒否。三浦義村は知恵を絞り、左大臣の九条道家の子なら頼朝の妹の孫にあたるのだから、摂政関白家の子として将軍にお迎えすることができるのではないか、と提案。かくして道家の子三寅(のちの頼経)が鎌倉下向することとなる。将軍の座を狙っていたのは公暁だけではなかった。摂津源氏の名門源頼茂は三寅の下向に不満として謀反を起こすが鎮圧。謀反に伴う戦いで焼失した内裏再建に反発した国司・荘園領主・地頭などに対抗するため、後鳥羽は義時排除の院宣を発した。義時を東国の奉行程度にしか認識していない後鳥羽は倒幕ではなく、軍事部門のリーダすげ替えと考えていたが、1か月ほどで逆に打ち取られ隠岐に配流、子の順徳も佐渡に流罪、土御門も自ら遷幸した。
承久の乱を経て、幕府は治天の君と天皇選定権を獲得、六波羅探題を京の出先機関とし、西国没収地に東国武士を地頭として移住、全国支配を実現、晴れて朝廷と幕府の権力関係を逆転することに成功、権門体制は崩壊した。本書内容は以上。