武士の発生は古くは古代から中世にかけてのことで、当時は武芸を身につけた民の一種である芸能民と分類されていた。筆者によれば当時の分類では、出生の別として、出生したイエが貴族、侍、百姓、それ以外の4種類に分けられ、当時の官位として従五位下以上が貴族、官位を持たないのが百姓、百姓と貴族の間にあるのが侍であり、生活のよりどころたるイエを持たない身分がそれ以外となる。職業としては文士(学問や儒学、文学に携わる)・武士(馬術、弓、鑓使い)、農人・浦人・山人(農林水産林業などの一次産業従事者)、道々の細工(手工業)の3種類に分類できる。出生したイエが属する社会的機能が決められており、侍のイエが持つ機能は文士もしくは武士であった。イエには得意とする芸能分野があり、芸能には琵琶法師や白拍子、雅楽、猿楽、蒔絵、紙漉き、鍛冶、天文博士、算術、商人、仲人(調停人)、博打打、それに槍、弓、馬術などに長じる武士であった。
武士という言葉は養老5年の元正天皇の詔にあらわれている。そこには文人と武士について記され、武芸に秀でた人たちにも絹糸が賜与されている。武士の中には5位以上に昇任したものも含まれ律令制度の中から武芸に長じたイエを家業として社会的に認めていることが分かる。つまり、武士の登場を平安中期に国守による国衙の軍制を発生母体とする、という従来説よりずっと以前より存在していた、というのが筆者の主張。その後平安中期以来その武力を背景にして勢力を伸ばした。つまり武士の誕生は地方都市ではなく、都で発生した。
武芸の最重要事項は馬上の弓の技であり、それが中世戦場での戦闘手段であった。つまりこの時代侍の魂は刀ではなく、侍の最重要武芸は弓と馬だった。中世の戦闘では矢合わせから始まる。両軍は戦場に盾を垣のように並べ、双方兵力数により前後するが、約50-100メートル離れて対峙。鬨の声を三度上げたのちに、双方の騎馬武者が鏑矢を射て始めるのが作法とされた。そののちに、騎馬武者は騎馬姿勢で、徒士は盾越しに一斉に矢を放つ。この矢合わせによる矢フスマで勝敗の帰趨が決まる場合もあるが、長引いた場合には、盾の間から騎馬武者が徒士を率いて小集団で前に進み出て、双方が入り乱れて組み合う「馳せ組む戦」となる。しかし馳せ組む戦になることはまれで、多くは矢合わせで帰趨が決したという。馳せ組む戦では狙いやすい馬がまず狙われ、騎馬武者を地上に落としてから槍と刀で戦われた。徒士は槍先をそろえて敵に向かい、刀が使われるのは最終段階。斬るよりも刺すのが相手に致命傷を与える手段だった。
当時の馬は体高148センチ以下のポニーと分類され、去勢もされていなかったため暴れ馬が多く、気性の荒い馬を戦場で使うためには騎馬武者一人につき口取りが二人必要だった。つまり戦場で騎馬武者が疾走して戦うことはなく、蹄鉄もないため長距離の騎馬疾走はできなかったのが実情。馳せ組む戦での騎馬武者同士の戦いは緩慢な動きで落馬させられることから始まった。騎兵による突撃は作り話であり、映画での見栄えのための創造の産物。長篠の戦の武田勢の騎馬突進はありえず、織田勢の鉄砲三段撃ちも、無駄玉が多く、火薬を最前線でとりあつかうことは危険、撃ち手の技能習熟には個人差が大きすぎて現実的には不可能であり、後世の作り話である。鉄砲は弓よりも命中精度が高く、殺傷力が確実、射程距離も長くて便利だったが、弓矢は安価で入手が容易、連射が可能で足軽にはもってこいの武器だった。鉄砲では弾丸や火薬は高価で扱いが難しく雨中での使用が不可、暴発もあって使いにくかった。
鎌倉から戦国時代の武士は「渡りもの」とされ、強く有利な主に使えることを重要視するため何度も主人を変えた。つまり世間の評判や名誉を表す「名利(みょうり)」を求めるのが武士であり、自分の値打ちを形で表すことを旨とした。儒者貝原益軒は戦国以前「日本の武道は儒者のように仁義忠信ではなく、偽り、相手を騙さなければ戦いには勝てない。兵は詭道であり味方を騙してでも手柄を奪い取るのが日本の武道であり、中国のように正直に手ぬるいことでは功は上げられないし、日本の風俗にあわない」とまで言っている。当時の武道は倫理礼節からは程遠いものだった。
こうした戦国の時代は江戸時代、元和元年の豊臣家滅亡で終わり、綱吉の時代になると武断政治から文治主義へと変化、武士も武芸よりも「文武忠功を励まし礼儀を正すべし」と武家諸法度で定められた。この時代に刀は象徴的な武士の魂と祭り上げられ、刀鍛冶の作る刀もそれ以前の戦いの道具から鑑賞に堪える美しさを求めるようになる。山鹿素行は武士の職を「主人を得て奉公の忠を尽くし仲間に交わり信を厚くし、自身を慎んで義をもっぱらとする。農工商の三民の上に立つ武士は天下に天の道が正しく行われるようにする、そのために文武の徳知を備えなくてはならない」と表現した、これが素行の士道論。これに対し、死の潔さ、死の覚悟を根本とする思想が武士道であり、佐賀鍋島藩が編纂した「葉隠」が代表作。士道は武士としてなすべきことを前にしては死を避けるべきではない、とするのに対し武士道では、私心を隠さないためには決して死を避けず、むしろ死ぬことにおいてのみ純粋が保たれるとした。士道では、主君に対しても諫言すべき時にはすることを旨とし、容れられない場合には去れとするが、武士道では諫言しても容れれない場合には主君の味方になり寄り添うこととした。主君との契りを絶対視したのが武士道であった。
明治維新となり富国強兵を目指した政府は国民皆兵を目指した。武士という存在は変革には障害となるため解体され、四民平等とはされたが、江戸時代までの貴族・大名は華族、武士階級は士族、その他は平民とされた。明治6年正月時点の華族は2829人、士族が189万2449人、平民は3110万6514人、その他(僧侶、神職など)が29万8880人であった。廃刀令は明治3年、国民皆兵の実現は明治22年までかかった。多くの氏族は中央、地方の文官、武官、司法官、警察官となり、官吏に占める旧士族の割合は70%、全体でもその40%を占めたという。
しかし、こうした士族への対応があったものの、旧士族の明治政府に対する不満は強く、西南戦争を最大とする数多くの反乱があり、明治11年の近衛砲兵による竹橋事件が起きると陸軍卿による軍人勅諭が出され、軍隊の天皇親率、軍の政治不関与、命令への絶対服従などの原則は、1945年の敗戦まで影響力を持った。明治11年には、天皇に直属する参謀本部が設置され山県有朋が陸軍卿に並立することとなる。この統帥権は帝国憲法発布後も国務から独立し、軍人勅諭による軍の政治不関与は、その後政治が軍を統制することを排除する論理となった。
この時代、過去の戦争の研究書として全13巻「日本戦史」が編纂され、近年までの歴史小説やドラマ、歴史研究者でもこの書籍に依拠することが多かった。編纂者は参謀次長の川上操六で、実際の戦闘の様子を解説した確実な史料は乏しかったため、明治の軍人としての憶測を交えたことが、後の軍記物の小説や
映画ドラマなどにおける誤解や、歴史的には間違った脚色が行われる原因となった。具体的には桶狭間の戦いにおける信長による奇襲攻撃で今川義元を破った、という記述や、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の寝返りにおける「問鉄砲」などが史実ではない。このように日本戦史は擬古物語であり、近代軍隊の目線や基準で戦国時代の戦いを記述しており、江戸時代の娯楽本位に書かれた軍記もの、軍談を参考書とした架空戦史であるといえる。こうした戦史を学んだ日本の将兵は鵯越えや川中島、桶狭間などの「奇襲」を戦術として戦ったが、情報取集や索敵を近代兵器により行った米軍には事前に察知されており、惨憺たる敗北に終わったことは周知されている。
近代になり武士道が廃されると逆説的に武士道が見直される。日清日露戦争後の富国強兵の掛け声に呼応するように、日本は強いことを西欧諸国にアピールした欲求が頭をもたげる。新渡戸稲造の「武士道」は1900年、そのような時代に英語で書かれ、その目的を一部達成した。道徳体系としての武士道、義と勇・敢為堅忍の精神、仁・惻隠のこころ、礼、誠、名誉、忠義、武士の訓練と教育、克己、自殺と復仇の制度、刀・武士の魂、婦人の教育と地位、武士道の将来を解説した。新渡戸稲造は熱心なクエーカー教徒であり、キリスト教の価値観に矛盾しない形で、騎士道と相対する価値観としての武士道を表現したといえる。植民地的勢力拡大活動進めたい当時の日本政府はこうした軍人勅諭、教育勅語、武士道の精神を大いに活用し、学校教育、軍人教育、マスコミ対応を進めていった。こうして「武士道」が思いもしない不幸な歴史を背負うことになってしまう。武士道が本来は戦いを避ける平和な思想であること望みたい。本書内容は以上。