河内源氏は武士の始まりに連なる一族の一つ。本書は清和源氏の一つと言われる河内源氏に焦点を定めて清和天皇の孫に当たる源経基、その子源満仲の子の世代、摂津源氏の頼光、大和源氏の頼義、そして河内源氏の頼信を紹介。頼朝はその6代孫に当たる。摂津源氏では頼光の孫の代に多田源氏となる頼綱、美濃源氏となる国房がいる。河内源氏の派生には頼信の子で頼義、その子が八幡太郎となる義家がいて、その兄弟からは、佐竹氏、平賀氏、小笠原氏、武田氏が派生する。義家の子の世代が嫡流の義親がいて為義、義朝、そして頼朝へとつながる。義朝の兄弟に義賢がいてその子が木曽義仲。義親の兄弟に義国がいてその子の世代が新田義重と足利義康となる。
武士の始まりは地方の荒くれ者ではなく、荒くれ者たちを束ねて統率し一定の目的を定めて土地を守る人たちの集団へと成長していく貴族の血を引く者たちだった。9世紀末には降伏した蝦夷の俘囚や坂東の群盗達による武装集団が蜂起し騒乱状態を作り出していた。上総介として東下し混乱を鎮圧したのは平高望であり、桓武平氏の三代孫。平将門の乱を引き起こすきっかけとなるのが源経基、武蔵の国の介として赴任していたが、足立郡司と対立しそれを調停してくれたのが平将門で、将門はその後反乱を起こしたため経基は従五位の下に叙された。
満仲は安和の変で密告者となり源高明の失脚を招く。満仲は高明に伺候しながら裏切ったとされる。その恩賞で正五位下に叙され藤原北家の信任を得て京における武士の第一人者となる。変の翌年、摂津に多田院を建立、多田源氏と呼ばれる。
河内源氏の祖となるのは摂関政治の全盛期、花山天皇の出家騒動のときに、出家の護衛をしていた満仲一族であり、兼家一族の側近として働いていた。兼家の二条邸造営時には頼光は30頭の馬を献上、弟の頼親、頼信は京における盗賊捜索にあたっている。その後道長が権力を獲得すると頼光、頼親は道長警固の役割を持ち、道長の金峰山詣でに護衛として付き従っている。
道長の死後起こったのが平忠常の乱、平定の追討使となるのが頼信で、頼義と頼清は東国に進出、東国での武門を確立し始める。その後の前九年の役では清原氏が苦渋の勝利をあげるが、頼義の兵力はそのわずかな支えにしかならなかった。夷狄鎮圧と王権の守護として武士本流の流れに乗るのが八幡太郎義家だが、後三年の役は私戦と見なされ朝廷から恩賞を得ることはなかった。また嫡流を巡り義家と義綱は兄弟相剋することとなる。
義家の没後は河内源氏没落の時代である。義親の濫行と反乱があり義親一族が滅亡したあとには為義が後継者となるがまだまだ未熟であった。保元の乱では為義とその子義朝が戦うこととなり、為義一族は処刑され、義朝が勝者となる。平治の乱では源氏一族は壊滅、河内源氏は閉塞状態になるが、忠盛の正室池禅尼の慈悲で生き残った頼朝がその命脈をつなぐ。
源平合戦は源氏内部の嫡流争いの一部でもあった。京の政変、辺境での反乱、兄弟間の嫡流争い、源氏一族は浮沈を繰り返した。頼義、義家、義親、為義、義朝と代を重ねる源氏嫡流が栄光を手にするのは何世代にもわたって積み重ねられた武士と同族間の争いの果であった。12世紀末には頼朝が武家による政権を樹立するが、それは武士の争いの始まりでもあった。本書内容は以上。