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意思による楽観のための読書日記

京都の「戦争遺跡」をめぐる 池田一郎・鈴木哲也 ***

京都には空襲は来なかった、と思っている人も多いが、空襲、戦争の遺跡はたくさんあるという。舞鶴は、現在も自衛隊の基地がある、戦争当時は日本海最大の軍港だった。舟屋の町、伊根にも魚雷発射基地や新井崎砲台などの戦争遺跡がある。大江山のニッケル鉱山や丹波鉱山には中国人や朝鮮人の強制労働遺跡がある。峰山には特攻隊訓練基地があった。京都市内にも東山の馬町や神足には空襲があり、西本願寺には肉弾三勇士の碑がある。そしてなにより、私が小学生から大学時代を過ごした宇治、伏見にも多くの戦争遺跡がある。

伏見には第16師団の司令部があった。現在は聖母女学院、京都教育大、付属高校、藤森中、龍谷大、京都府警警察学校、伏見稲荷から墨染までの師団街道の両側はすべて16師団用地だった。伏見は江戸時代から大阪からの物資を運搬してくる要所であり、徳川幕府は伏見奉行所を設置して監視した。戊辰戦争でも戦場になった伏見に、明治維新政府の国防の中心人物だった大村益次郎は、山県有朋、伊藤博文などと相談し、明治政府への反抗勢力が東北よりも今後は西日本に多くなると考え、西日本と大陸への監視を意識して大阪には鎮台を、京都には士官養成学校を設置した。その後大村益次郎は暗殺されるが、その遺志を継いで、山城に火薬製造所、伏見には大阪鎮台の陸軍屯所が設置された。

大村の構想に従い、黄檗と木幡には火薬庫と製造所が設置、伏見には日清戦争時代に歩兵三十八連隊が設置され、その後の日露戦争の戦力不足を痛感した明治政府は京都に大阪第四師団とは独立した第十六師団を設置した。師団司令部の他、騎兵隊、砲兵隊、輜重隊、憲兵隊、兵器廠、衛戍病院、射撃場など師団としてのフル装備だった。その土地跡が師団街道両側の土地である。今でも深草石峯寺には陸軍墓地の慰霊碑、師団街道と垂直に交わる第一軍道から第三軍道と師団橋が残る。現在の国立病院は衛戍病院の跡地。教育大のグラウンドは歩兵連隊の営庭。藤森神社にも歩兵連隊の記念碑などが残る。

JR桃山駅は、なぜ大きいのかと疑問に思っていた。明治天皇崩御に伴い、桃山は御陵になった。殉死した乃木大将の乃木神社も作られ、当時の政府は愛国精神強化のために、国民に御陵訪問を推奨、陸海軍の将官や皇室の訪問が相次いだ。そのため、桃山駅は京都駅と同等の駅格とされ、プラットフォームも増強、皇室専用のプラットフォームが原宿駅のように建設された。現在は奈良線複線化の工事が行われ、桃山駅も整備されていて、見違えてしまう。

宇治に設置された陸軍火薬工場は木幡の桃山南団地、黄檗の陸上自衛隊と京大研究所、萬福寺南側の運動公園の場所にあった。木幡の火薬工場跡地は日本レーヨンに払い下げられ、その後はユニチカになり、そして住宅と団地が建設された。黄檗の跡地は、東宇治中学と京大になり、萬福寺南側にあった村の鎮守神社は木幡の許波多神社に移転されたが、抵抗した村人たちは、鳥居の足だけを残して、悔しい思いを子孫が忘れないようにした。今でも鳥居の足は黄檗運動公園に繋がる京阪電車踏切の脇に残る。黄檗には赤レンガの迷彩が残った反応塔が残り、桃山南団地には防火防風のために植えられた松林が残る。

こういう歴史を知れば、何も知らずに乗るJR奈良線とは違う景色が見えるはずだ。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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