フィクションだが、落語に対する作者の愛を感じる物語だ。大阪の落語家、桂夏之介に入門したのは21歳の女子大生の甘夏、大学を中退しての退路を断った落語家志望。入門して3年、夏之介に稽古をつけてもらってきたのだが、ある高座に夏之介が現れない。物語はそこから始まる。夏之介には甘夏の三ヶ月先輩の兄弟子若夏、その6年先輩の小夏の三人の弟子がいる。夏之介は、関西落語会の重鎮で演芸協会会長になっている桂龍之介改め龍杏の四番弟子で、中堅である。
甘夏は夏之介の身の回りの世話を焼きながら稽古をつけてもらう。玉出の銭湯の二階でお風呂掃除をしっかり手伝う約束で格安にしてもらった下宿から、通いの弟子奉公を続けてきた。そうした中で、師匠からは数々の教えを受けてきた。まだ人生経験も勉強も不十分な甘夏は、夜空を見上げてみたオリオン星座の名前も由来も知らない。夏之介は、甘夏に落語以外の人生そのものの経験や苦労が落語には出ること、落語馬鹿になってはいけないんだ、と教える。オリオン座には真ん中に3つの星があり、それが自分たち三人の弟子のこととも思うが、地球からは三連星に見えるが、それは実は遠く離れた星だとも夏之介に教えられる。
多くの落語噺が物語の中で紹介される。甘夏が最初に稽古する「つる」、鶴という名前の由来を聞いたそそっかしい男が他所に行ってそれを自慢する話。これが単純なようで、やってみると難しい。甘夏の本名は北野恵美、小学校時代は学童保育の児童だった。学童保育の先生はなんと自分の父親、人気のある先生だったが我が子にはなぜか厳しい。恵美は思い切って笑ったり、先頭を切って何かをすることを避けるようになった。学校でも友達を作れず、引っ込み思案な学生時代を送った。ある日、アルバイトで稼いだ3000円をもって天神様の境内にある南條亭という落語定席に入って、夏之介の落語「宿替え」を聞いたのが入門のきっかけだった。
甘夏は兄弟子の二人と一緒になり、夏之介が早く帰ってきてほしいと、「夏之介師匠、死んでしまったかもしれない寄席」という深夜落語を甘夏の暮らす銭湯で毎月開催することにする。出し物は毎月決めたテーマに沿って演者が選ぶ。演者は三人の弟子に加えてゲストを一人呼ぶ。夏之介の兄弟子や弟弟子、そのまた弟子などが次々と出演してくれるが、夏之介はいつまで待っていても帰っては来ない。
小夏は夏之介に真面目すぎて面白みに欠ける、と指摘されてきた。その小夏までもが失踪する。広島で一目惚れしたストリッパーを追いかけて松山まで行って、帰ってこなくなったというのだ。甘夏は小夏を説得するために松山に出かけるが、小夏は覚悟を決めたように帰らないという。
甘夏は残された若夏と師匠を待つための深夜寄席を続けられないと思う。そんなとき、夏之介の兄弟子の弟子竹之丞に若夏とともに九州旅行に誘われる。夏之介がその昔、熊本から宮崎を寄席をしながら旅をしたことがあるから、その跡を辿ろうという趣向であった。その旅で若夏は、自分の屈託を二人に打ち明ける。出身が水俣であること、母も自分も水俣出身であることを隠してきたこと、差別されたことなど。そして最終日、三人は水俣で若夏が昔親子でお世話になった旅館で寄席をする。旅館の女将は、水俣の名産品に甘夏があることを三人に教える。
夏之介はいなくなったが、小夏はストリッパーに振られ、一回りたくましくなって帰ってきた。三人の弟子は、それぞれの屈託や悔恨を抱えながらも落語家として成長し、一人前の落語家になっていく。「仔猫」「皿屋敷」「崇徳院」「東の旅発端」「胴切り」「次の御用日」「鴻池の犬」「不動坊」「代書」「牛ほめ」「蔵丁稚」「茶漬け幽霊」「たちぎれ線香」「七度狐」「天神山」「算段の平兵衛」「らくだ」「一文笛」などの落語噺が簡単に紹介され、それぞれの話の重要になるポイントや、演者にとってなにが難しいのか、などのキモも紹介されるという、格好の落語入門書にもなっているところが憎い作品。