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意思による楽観のための読書日記

幕末下級武士のリストラ戦記 安藤優一郎 ***

山本政恒は天保12年(1841年)に徒士一番組山本左衛門の子として生まれ、本家の養子となり、徒士組としての勉学と剣術などの訓練に励む。安政3年御徒お抱えとなり、将軍家定の警固、とくに将軍外出時には影武者として振る舞うことを仕事とする。職場では先輩たちのいじめにもあうが我慢の末、ようやく仕事にも慣れてくる。しかし幕末になり、薩長勢への対抗のためには幕府側にも銃を装備した軍隊の必要性が高まり、徒士組は鉄砲隊となり、それまで行ってきた剣術、水術、槍術などの訓練は無用となり、射撃の訓練に明け暮れる。おまけに将軍警固職はなくなり、大政奉還、王政復古で職を失う。

徳川宗家は800万石を抱え、6000人の旗本、36000人の御家人を養ってきたが、徳川宗家は70万石のいち大名扱いとなる。家族を抱え御家人の端くれとしての選べる道は、新政府に就職するか、脱サラするか、それとも薄給を覚悟して静岡に移住するかと限られていた。戊辰戦争の後は、徳川家達の警固を担当することとなり、東京で天璋院警護役として旧紀州徳川屋敷の玄関勤番となる。しかし明治2年には警護役免除となり家族ともども静岡に向かう。

旧幕臣のなかには、家屋敷さえ手に入れられず困窮を極める人達も多かったが、政恒はそれまでの真面目な勤務態度を気に入られて、ラッキーにも600坪の家屋敷を手に入れ、浜松城の勤番として三番勤番組士となり、3人扶持年60円を得る。その後、明治6年には牢番となるが、囚人護送の際逃亡者を出したため責任を取り失職。職探しのために、東京に出て、内職で糊口をしのぐ日々を過ごす。

旧幕臣の知り合いのつてで、明治8年に熊谷の学校勤務となり、浜松の家族を呼び寄せる。熊谷で15年を過ごし、明治23年に失職、下谷に引っ越し、商売を始める。明治25年からは恩給年額107円を得る。明治26年からは帝国博物館に仕事を得、明治32年には商売をたたむ。明治34年、還暦の年に「政恒一代記」の出版を宣言、在命中は出版は叶わなかったが、原稿は明治45年完成。76歳にて逝去。政恒一代記は昭和60年に研究者の間で注目され、時事通信社より「幕末下級武士の記録」として発刊された。

幕臣として真面目に必死で勤めていた政恒のような人物は多くいたと考えられるが、歴史が大きく転換する中でも必死で生き抜いた。明治になると徳川時代の歴史が忘れられ、旧幕臣たちは自分たちの歴史がかき消されてしまうような気持ちになったに違いない。本書はたまたま研究者の目に触れて発刊されたが、同様の記録はまだまだ埋もれているに違いない。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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