第一部は、明治維新以降の新国家建設から太平洋戦争に至るまでを振り返り、軍部が独走して全国民と近隣諸国を巻き込む大戦争に突入することになった背景と理由を考察する。第二部は、太平洋戦争が如何に無謀な戦争であるか、軍部中枢にいたエリート軍人たちの思考経路と現実の戦争現場との乖離を描く。
明治四年の岩倉使節団は新国家ビジョンを見定めるための政府首脳達による先進諸国の実地見学だった。そこで見たのは、派遣された大久保からみて自由すぎるアメリカ、伊藤博文が思うのは進みすぎたイギリスであり、当時の新国家プロイセンと宰相ビスマルクの演説に大久保、木戸孝允は心を奪われた。西洋諸国に伍していける新国家建設のためには、法律、正義、自由の理以上に、軍事力強化が重要であり、国民皆兵による徴兵制度と統帥権を行政・立法から独立させたプロイセン憲法が日本に必要だった。これを日本の軍隊に持ち込んだのが2年前に長州藩からの長州藩からの視察団で欧州事情を理解していた山県有朋。それを支えたのがビスマルクに心酔した大久保利通だった。しかし旧士族の中には、国民皆兵に反発勢力が多く、西郷、板垣、後藤象二郎らは、その不平士族のはけ口を征韓論へと傾けようとした。それが西郷を担いでの西南戦争に発展する。
日清日露戦争は満州、朝鮮半島、台湾という新領土を日本にもたらしたが、世界情勢を理解せず日本の実力を過大評価した国民の期待は更に膨れ上がる。臥薪嘗胆、富国強兵は、軍隊強化に向けた重税を国民に強いるためのキャンペーン。山県が日本に持ち込んだのはエリートを軍人に育て上げる陸軍海軍の士官学校、大学校であり、そこで育った軍事エリートは、現場を経験しない兵隊の命を数量としてしか理解しない参謀候補であり、自分の評価を最大限高めたい軍事官僚だった。山県有朋らの明治の元勲が居なくなると、陸海軍の若手を抑え込む力がなくなり、軍部勢力は大正デモクラシーや第一次大戦後世界の軍縮への動きに反発する。しかしこの大正時代の頃は軍人冬の時代だった。
このころ、若手の陸軍エリートとして、欧州に留学・赴任していた、欧州出張中の岡村寧次、スイス公使館付武官永田鉄山、ロシア大使館付武官小畑敏四郎の陸軍士官学校16期の同期生がドイツの保養地バーデン・バーデンで集まる。たるみきった軍隊の人事刷新と軍制改革を断行して、近代化と国家総動員体制を確立しようと誓いあった。エリート教育されてきた若手を抑え込んでいた長州閥を打倒し、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎らを擁立しようと約束したという。これに先立ってこの三人と東條英機が陸軍の腐敗を憤慨、皇軍の立て直しと革新を目指し勉強会を開いていた。515事件や226事件は、こうした軍人冬の時代の若手の思いを、更に次の世代の若手将校たちが先走って実現しようとしたクーデターだったとも言える。大久保と山県が明治維新直後に日本に仕込んでいた侵略戦争への時限爆弾は、職務継続が難しくなっていた大正天皇に摂政宮として当時の皇太子を立てる、この頃から時限装置を起動し始めた。
第二部は太平洋戦争の無謀さ。3年8ヶ月の太平洋戦争期間、軍事的な成功を収めたのは最初の真珠湾攻撃、香港、マレー作戦だけだった。敗北の始まりは開戦翌年のミッドウェー海戦。すべての暗号電文はアメリカに解読されていたため、作戦やその後の変更司令は筒抜けだった。海軍活動一年分の燃料と虎の子の空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を失った海戦は負けるべくして負けた敗北だった。負けを認めたくない大本営の軍事エリートは撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と表現する。玉砕を強いられたアッツ島守備軍は「皇軍の手本」というキャンペーンが張られた。
日米戦力差は30対1だという若手参謀の分析に対して東條英機は、「大和魂と日本精神で戦えば勝機はある」とはねつけた。1943年からは東條英機は首相、陸軍大臣に参謀総長も兼務し、行政に立法と総司令官が一人に集約された「東條幕府」とも言われる国家体制となっていた。なんとか一矢を報いて停戦交渉に持ち込みたいというかすかな望みを持つ軍部首脳は、補給を無視したインパール作戦を実行させる。天皇には勝ち戦の報告しかあげられず、撃沈した米国空母の数が100隻を超えることに疑問を抱く小学生が出現したという。
戦争終了後、日本政府は戦犯裁判で問い詰められることを回避するため、全国の役所に証拠となる戦時文書の焼却を命じた。米国の調査団はこれを調査、改めて日本における戦争被害を「爆撃調査」として文書化した。これがあるために、戦争被害が現在でも明確に分かるという。アメリカ軍は原爆投下、沖縄占領後の作戦も立案済みだった。南九州に上陸、基地を建設し関西、東海、関東の都市を徹底的に爆撃する。その後、九十九里浜と相模湾から上陸、首都東京に攻め込むというもの。予想されるアメリカ軍戦死者は100万人、日本側の想定死者は1000万人だったという。特攻作戦を考え出して、敗戦時に自決した、と言われた大西龍治郎だったが、実際には汚名を着せられただけだった。軍需省航空兵器総局長だった大西龍治郎に特攻作戦を命じたのは、当時の海軍軍令部首脳、軍令部総長の及川古志郎、次長伊藤整一、作戦部長の中澤佑だった。そして大西に宛てた軍令部指令書を作成したのが参謀の源田実。死んだ現場の指揮者に、特攻指示者の汚名を着せたことは、戦後明らかになる。本書内容は以上。
現場で必死に戦い死んでいったのは招集された兵隊たちで、玉砕や転進を命じた作戦参謀たちは、安全な作戦本部を、転進命令後はさらに安全な場所に移動させていった。本書の中では戦後も生き残った作戦参謀たちにもインタビューしているが、自分たちに不利な証言はしない。兵隊の命を数量としてしか見ない、トップが聞きたい情報しか報告させない/しない、世界情勢を見誤る、大帝国の野望を夢見る、まるで今のロシア、プーチンのニュースを聞くようである。