意思による楽観のための読書日記

日露戦争 勝利の後の誤算 黒岩比佐子 ****

日本が昭和の時代にアメリカ・イギリスと戦争を始めてしまった遠因は日露戦争勝利にあった。司馬遼太郎は「この国のかたち1」で次のように書いている。「要するに、日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。・・・政府批判といういわば観念を掲げて任意に集まった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったであろうか。調子狂いはここから始まった。大群衆の叫びは平和の値段が安すぎるというものであった。・・・私はこの大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。」

筆者は日露戦争終結の講和条件から記述を始める。日清戦争では台湾領有を勝ちとり賠償金も得ていた。相手が大国ロシアであれば樺太・カムチャツカ、沿海州割譲と賠償金30億円、これが新聞などを通して、帝国大学7博士の一人戸水寛人の意見として報じられていた。ところが全権大使小村寿太郎がロシア全権ウィッテと合意したのは「樺太北緯50度以南の領有、賠償金は要求しない」というものであった。実際には、日本は韓国における日本の優位、満州からのロシア軍撤退、大連・旅順の租借権移譲、南満州鉄道の譲渡などを勝ちとっていたのだが日本の新聞は講和反対キャンペーンを行ったのである。日本の財政、軍事力は限界でありこれ以上戦争など継続できなかったというのが実情であったのにである。

当時の首相は桂太郎、通称「ニコポン宰相」と呼ばれた。ニコニコ笑ってポンと肩を叩く、親しげにふるまって懐柔するということ。人たらしであった。日英同盟締結を実現した内閣を国民は支持していた。桂は艶福家としても有名で、芸者のお鯉を落籍させて赤坂榎町に妾宅を構えさせた。これは新聞でもずいぶん叩かれた。桂は対ロ強硬論であった頭山満や杉山茂丸に相談したという。この杉山茂丸は作家夢野久作の父親である。福岡県人である杉山は薩長閥で固まっていた当時の軍部に対して日露戦争の舞台裏で活躍していたという。

9月5日に日比谷公園で講和条約反対の国民大集会が開かれ、ここで大変な騒擾になる。多くの参加者は新聞に書かれていた大会案内にしたがって集まってきただけであったが、騒擾状態を創りだそうという勢力がいた。同士連合会の小川平吉、河野広中、大竹貫一、内田良平、江間俊一などである。江間は当時東京市参事会員でその後衆議院議員にもなった。江間の孫娘は俳優上原謙に嫁いでできた息子が加山雄三である。日比谷公園では3万人が気勢を上げた。一部は暴徒となり、講和条約に賛成した新聞社を打ち壊し、別の一部は新富座を破壊した。この時巻き込まれたのが見物に来ていた神奈川県代議士小泉又次郎で小泉純一郎の祖父である。

無声映画の弁士として知られる徳川夢声は当時11歳だった。お鯉の妾宅は夢声が行きつけの銭湯のすぐとなりで、小学生であった夢声でもその存在と妾宅の意味を知っていた。お鯉の出ていない新聞は当時なかったのであり、毎日報道される人が近所にいたのである。尊敬すべき総理大臣の存在とお鯉という関係が頭の中では関係付けられなかったという。暴徒はお鯉の榎町の家にも押し寄せたという。夢声はそれを怯えて楽しんでいた、つまり大衆の期待はそうしたところであった。

日比谷焼打事件では警官が目の敵にされ、日露戦争を戦った軍隊に逆らう市民はいなかった。当時、焼き討ちに参加した多くが人力車の車夫であったという。車夫たちは日常的に巡査に取り締まりを受け、当時走り始めていた市電に生活の糧を奪われようとしていた。交番と市電が焼き討ちの対象になったのは、講和条約反対とは関係がなかったとも言われている。

政府はこの騒擾をうけて東京に戒厳令を敷く。そして、市民に向かって暴力を働いたのは軍隊ではなく警官であった。しかも警察はこの機会を利用して疑わしいものをできるだけ検挙しようと、犯罪の温床とみなした場所にも捜査の手を差し伸べている。遊郭、木賃宿などが対象となり、民衆は警察への不信感を深め、軍隊には信頼と敬意を払うようになった。

講和条約締結を受けて、アメリカの鉄道王ハリマンは日本に対して、満州鉄道の共同経営を申し出ている。アメリカが満州で権益を持てばロシアへの圧力になると考えた桂は賛成、元老の井上馨は満州鉄道経営が日本にとっての重荷になると考え賛成した。しかし小村寿太郎は自分がせっかく交渉で勝ち取った権益をアメリカに半分譲るとは何事と大反対、これを取消した。筆者はこの時の日本の選択が日米対立を生み、日米開戦への第一歩になったという説を紹介している。こののちアメリカは日本に対して「機会均等と門戸開放」を日本に要求する。筆者はハリマン協定の取り消しが単純に日米対戦の原因とは言えないとしている。つまり共同で満州鉄道経営にあたったとしても別の原因で両国はぶつかり合ったであろうというのだ。

日露戦争後には7万人のロシア軍兵士が日本に捕虜として滞在、日本は必死で捕虜を手厚く扱った。しかし、日本人としてロシアに捕虜となった兵士には厳しい世論があった。生きて敵軍に捕らえられるは不名誉だ、とう考えである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という1941年に全陸軍に下された戦陣訓のプロローグはこのころすでに始まっていた。日本近代史で第二次桂内閣の1909年-1912年に韓国併合と大逆事件という大事件が起きている。いずれも強力な力による弱者の抑えこみである。軍隊による朝鮮半島支配と官憲の力による社会主義者弾圧、桂内閣の性格を表すものである。

この本ほど明確に日露戦争の頃の日本人の考え方と太平洋戦争突入を結びつけて詳細に立証、解説した本を私は知らない。司馬遼太郎はそのことをはっきり書いているが、この筆者黒岩さんは資料を丹念に読み、細かく一つづつ立証している。危うい勝利の裏には絶望の深い谷があった、このことに国民が気づくのは40年以上も後のことであった。
日露戦争 ―勝利のあとの誤算 文春新書
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