幕末から維新の時代に、徳川将軍家から天皇家への権力移転は、維新の志士たちの活躍で実現した、という歴史を学んできたように思えるが、京都の公家たちの動きも激しかった。特にペリー来航から王政復古にかけての十数年、公家たちは幕府と有力諸藩の動きを単に客観的に眺めていたわけではない。孝明天皇と彼を支えた三条実美、岩倉具視、正親町三条実愛、中山忠能などである。
そもそも、京都の公家たちの家格や先祖、門流のことを知らないと、理由がよくわからない出来事があるので、それを整理しておく。清涼殿に昇殿できるのが堂上(とうしょう)、できないのが地下(じげ)。政治的動きをするのは堂上公家である。最上の家格は五摂家、一条、九条、近衛、鷹司、二条である。その下に位置するのが清華家で、大炊御門、花山院、菊亭(今出川)、久我(こが)、西園寺、三条、醍醐、徳大寺、広幡の九家、大臣家は嵯峨、三条西、中院の三家で、ここまでが朝廷内の上層部に位置しそれ以下とは一線を画する。その下に、64の羽林家、28の名家、28の半家がある。羽林家は近衛中将や少将などの官職に就く武家の家で、正親町、岩倉、大原、千種、中山、東園、冷泉、六角、六条などがある。文官が名家で勧修寺(かしゅうじ)、烏丸、勘解由小路、長谷、中御門、平松、坊城、万里小路、柳原などがある。どちらでもないとされるのが半家で北小路、五条、土御門、富小路、錦織、西洞院、伏原、堀河など。
家格に加えて、先祖を示すのが一族で、天皇系(清和源氏、宇多源氏、清家、村上源氏、平など)、藤原系(鎌足系、閑院系、四条系など)、その他菅原系、卜部系などがある。そして門流が五摂家のどこに属するかを示す。門流ごとに元旦の年頭挨拶、元服などの儀式許可などが必要となる。例えば岩倉具視は羽林家という平堂上で村上源氏一族、、門流は一条家である。江戸時代の公家たちの行動は禁中並公家諸法度で定められていた。多くは年中行事、宮中行事であり、仕来りや装束の着こなし、道具類の選び方などの有職故実を重んじた。日記が重んじられ、降雨時の振る舞いや野外から室内への変更などの道標とするためだった。
公家の頂点は天皇であるが、官職としてのトップは関白、五摂家から選ばれた。二名いる武家伝奏が朝廷での決定事項を幕府に伝える役割で、五名いる議奏が天皇側近として朝廷内の上下調整を行う。この両役は清華家、大臣家、平堂上から選ばれる。この両役の下に五名の職事がいて、二名の蔵人頭で、うち一人が羽林家から選ばれる頭中将でもうひとりは頭の弁。天皇が幼少、病気の場合に設けられるのが摂政で、関白を親子二代続けると太閤と称する。朝廷内には左大臣、右大臣、内大臣があるが朝議には参加せず、改元などの特別な場合に意見を求められた。こうした公家たちは、ペリー来航以来、開国と攘夷、条約締結と勅許、将軍継嗣問題、公武合体、和宮降嫁などの政局に巻き込まれる。
水戸藩が率いる勢力が広め全国に広がっていった尊王思想と攘夷の動きから、公家の間には、幕府、西国諸藩、長州、薩摩それぞれの主張と勢力争いに否応なしに巻き込まれる。外国嫌いで攘夷を信奉する孝明天皇の存在は、公家と幕府、維新の志士たちとの間の小競り合いの原因となる。
三条実美と岩倉具視は文久年間に幽閉に追い込まれたが、正親町三条実愛や中山忠能は王政復古まで朝廷内にとどまり続けた。この差は何だったのか。和宮降嫁に尽力したのが岩倉具視、公武合体を進めたのが井伊直弼だったが桜田門外の変でその動きは促進された。攘夷実施を条件に和宮降嫁を認めた孝明天皇だったが、幕府による攘夷は実行されない。開国と攘夷で揺れ動く幕府と諸藩だったが、薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件で一気に潮目は変わる。
さらに孝明天皇の死により、彼により処分された多くの公家たちが朝廷に復帰した。広幡忠礼、徳大寺定則、長谷信篤、東園元敬、万里小路博房、有栖川宮熾仁、正親町実徳、石川基文、平松時厚、鷹司輔煕などである。理由は様々だが、長州藩との内通や公家間の疑心暗鬼、和宮降嫁に尽力したことで、その後の攘夷を幕府が実行しないことで尊攘派との軋轢が生じて朝廷を追われたなどの罪が孝明天皇の死により解除されたことが大きい。さらに長州と朝廷とのコンフリクトが弱まり、有栖川宮熾仁、中山忠能などが赦免された。さらに、「四奸二嬪」事件で処分された久我建通、岩倉具視、千種有文、富小路敬直らと、七卿落ちで京都から脱走した三条実美、大原重徳らも赦免される。
孝明天皇がどうしても拒絶していた神戸開港も実現、公家たちの代表的な気持ちを代弁していたのが孝明天皇。孝明天皇が横浜、長崎、函館の開港は認めても、京都に近い神戸だけは拒絶した、そして公家たちが開国を望まなかったのは、「外国人が怖い」それが本音だった。しかし時代は開国、王政復古へと進む。
維新政府での最初の要職に残ったのは、次の通り。右大臣に三条実美、大納言に岩倉具視、徳大寺実則、中御門経之、兵部卿に仁和寺宮嘉彰親王、有栖川宮熾仁親王、刑部卿に正親町三条実愛、宮内卿に万里小路博房、宮内大輔に烏丸光徳、外務卿に沢宣嘉、神祇伯に中山忠能、神祇大副に白川資訓。しかしその3年半後には、太政大臣三条実美、外務卿に岩倉具視、宮内卿の徳大寺実則、宮内卿万里小路博房、開拓長官に東久世通禧が残り、それ以外の要職は薩長土肥が占める。
岩倉具視と伊藤博文、岩倉の死後は三条実美が決めた華族令では、公侯伯子男の五爵が設けられた。爵位は世襲で、公爵は摂家、侯爵は清華家と大臣家、伯爵は堂上の大納言、子爵は堂上、男爵は四位以上の家格とした。公家、神官が480人、士族が29人。爵位の選定には、維新に功労あるもの、父親の功労、神官や僧侶の世襲名家、琉球尚家の一門とされ、「功労」評価により公平性が疑問とされる事例もあった。こうした不満は三条実美と伊藤博文らの間でその後も調整が図られ、爵位の見直しが行われた。ここでは明治政府の「国家への偉勲あるもの」基準により維新後の働きが再評価された。しかし公家たちが夢見た「栄華の夢」と王政復古の現実は大きく異なり、公家たちはその有職故実や慣例などを「公事録」「孝明天皇紀」編纂で穴埋めした。本書内容は以上。
「日本を洗濯する」と考えた幕末の志士たちと比べ、「異国の徒とは関わりたくない」公家たちでは、国家変革に対する勢いや思想は大きく異なっていた。それでも天皇の存在は継承され、その後の大戦でも残ってきたのだから、公家たちの思いの核心部分は継承されてきたとも考えられるが、公家たちの明治以降の現実は厳しかったようである。