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意思による楽観のための読書日記

邪馬台国は「朱の王国だった」 蒲池明弘 ***

天然に産出する「朱」は赤色の塗料であり、薬品となり、防腐剤、防虫剤としても利用される。水銀と硫黄の化合物が硫化水銀(HgS)であり朱、辰砂とも呼ばれ、漆に混ぜて塗る技法は古代縄文時代より土器や木櫛などに施されてきた。硫化水銀を加熱して硫黄を分離すれば水銀を得ることができ、金の精製や仏像への金メッキに水銀が使えるので、金、銀とともに水銀や硫化水銀は貴重な資源だった。また古代中国では朱と水銀を不老不死を願う仙薬として貴重品として扱い、白粉の原料としても使われた。朱は火山活動の結果生まれるとされ、古代より朱が、火山の多い日本列島から朝鮮半島や中国大陸に向けて輸出された。

日本列島における古代の朱産地は九州、四国、近畿であり、特に産出の多いのが奈良、三重、そして九州北部、それも中央構造線近辺とされた。日本における朱採掘は鎌倉時代までで採りつくされるが、朱の産地は金、マンガン鉱の産地でもあり、日本列島で古代文明が栄えた土地が、こうした朱の産地と重なることから、朱や水銀、金で得られる経済力がそこに住み着く人間社会の発展につながったのではないかという仮説に基づいて書かれたのが本書。古代古墳の墓には朱で赤色に装飾された墳墓が多く見つかっている。伊勢神宮の創設に深くかかわる天武天皇(大海人皇子)の墓にも朱色の装飾があるという。伊勢神宮の下宮、大和政権の中枢だった桜井の多武峰、松浦や波佐見、嬉野など九州北部、大分宇佐八幡宮は朱の産地であり、地名としても朱を意味する「丹生」「丹」「入」の地名が今でも残る。

魏志倭人伝には日本列島について「真珠、青玉を出し、その山には丹あり」と表現。青玉は翡翠、真珠はパールのことと解釈されてきたが、唐の時代の医薬品には丹砂が朱の意味で使われており、山には丹あり、真珠は朱、つまり辰砂ではないかとも解釈できる。魏志倭人伝を残した中国大陸の権力者にとって関心があるのは、自分たちが利用できる資源。つまり硫化水銀や金、銀のことを書いたのではないかという。邪馬台国へのルートには福岡、大分、瀬戸内海、そして大和があると考えれば、そこは辰砂の産地を伝って列島最大の朱の産地であった桜井に到達できる道筋を示している。記紀に記された神武東征や神功皇后のたどったルートも九州から岡山、そして大和の金山や朱の産地と重なり、彼らが持つにいたる経済力を支えたのが、朱と金ではなかったか、という推測が成り立つ。

卑弥呼の墓ではないかと議論されてきた箸墓古墳は、朱の産地である多武峰のある桜井にあり、「トウノミネ」という呼び名も「タンの峰」つまり「丹の峰」に由来すると考えられる。箸墓のある纏向遺跡の周りは水田あとはなく、2-4世紀に突然現れた政治の中心であり、そこに現れた権力者の経済的源泉が朱、水銀、金であった。桜井近辺に王宮を構えた古代大王は、10代の崇神から、11垂仁、12景行、17履中、21雄略、22清寧、25武烈、26継体、29欽明、30敏達、31用明、そして32代崇峻。古墳時代は桜井時代ともいえる。

ヤマトタケルの神話は東西に活躍ののちに、帰途の三重で、「疲れた足が三重に折れ曲がってしまった」とある。金属毒の中でも、水銀毒は硫化水銀からの硫黄分離、金精錬やメッキの材料として水銀蒸気による鉱毒、健康障害を発生させた記録ではないかと推測する。神功皇后の祖先とされる息長(おきなが)氏は近江の地の豪族であり、継体天皇の出身一族とも言われるが、北近江は朱の産地でもあり、その経済力の背景には朱、金があったとも考えられる。東大寺のお水取りに水を送り出すのが越後は小浜の遠敷(おにゅう)神社、継体の出身地でもあり、この地も「丹生(にう)」の産地。鯖街道は朱・マンガン鉱床と合致するという。

壬申の乱で一度尾張に逃れた大海人皇子が立ち寄ったのが伊勢神宮。その西、多気町にも丹生神社があるが、いずれも中央構造線上にあり朱の産地でもある。経済力を持っていた伊勢商人のルーツ、三井家の先祖も朱や金で財力を養い、発展した来たのかもしれない。伊勢神宮内宮の天照大神は大和から、下宮の豊受大神は丹波の国から移されたとされ、丹波、大和、伊勢を結ぶ古代のつながりを感じさせる。このうち奈良と三重は日本列島における朱の採掘量1位と2位であり、丹波はその名の通り、採掘現場さえ発見されていないが、丹生神社があり、舞鶴にも大丹生という地名が残る。丹後半島には全長198mの網野銚子山古墳があり、丹後市には36X39mという弥生時代としては規定外の大きさを誇る方墳「赤坂今井墳墓」がある。古墳時代には九州に次ぐ鉄の産地でもあり、丹後王国があったのではないかという説もある。

九州、奈良、伊勢という結びつきの中に、邪馬台国と大和王権の歴史が展開したことが感じられる、それは朱の歴史にも重なるのではないか。本書内容は以上。

魏志倭人伝では対馬、壱岐を経て、末慮国、伊都国、奴国、不弥国へと至る。ここまでが「里」表示で、投馬国を経て邪馬台国が水行、陸行の日数であらわされる。伝聞による記述ではないかとされるが、倭人の作った小さな船に乗り換えて、20日も瀬戸内海を進むことが嫌だった、とも推測される。朱に関心があるなら、ぜひ自分の足で行ってほしかった。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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