昭和時代の日本陸軍という硬直的な組織の中で、大佐、少将という高級将校、それも参謀本部に所属していた小沼治夫は、論理的思考方式と分析力を持っていたが、組織人、そして日本人としての愛国心ももっていた。最初にその真骨頂を発揮したのはノモンハン事件における分析報告である。近い将来、ソ連は今よりもさらに優勢な勢力となり我が国に対する脅威となるという分析。近代戦においては戦車の機動力や砲兵、飛行機による地上戦力の支援、ロジスティックスが必須であるという至極真っ当な主張だった。当時、日本兵の強みは寡兵であっても精神力が旺盛であることだと考えていた陸軍内部においては、ソ連の火力、兵站、経済的優勢を主張するのは相当な覚悟が必要。反体制的な主張ではなく、今の戦力ではソ連に勝てないよ、という冷静な分析だった。参謀本部上層部はその報告書を受け取ったうえで握りつぶしたが、小沼の分析力は高く評価されていた。
その後、陸軍大学で教える立場になり、劣勢になっていたガダルカナル島、そしてルソン島へ高級参謀として日本の劣勢を跳ね返すべく赴任を命じられる。小沼が主張し続けたのは近代戦における火力や物量、ロジスティックスの必要性であるが、それらこそが両島の日本軍には圧倒的に欠けていた。それを指摘してきた小沼が現地で挽回するためには、自らが指摘していた兵士たちの精神力に期待するしかなかった。しかし、残された勢力で戦況挽回は不可能であると分析した小沼は、玉砕を禁じて、最後の一兵まで抵抗して米軍の本土上陸を一日でも遅らせるという選択肢を主張した。この作戦指導はのちに賛否両論さまざまな議論を巻き起こした。
戦後、疑念を抱きながらも軍人として命令に従うしかなかったことについて強い自戒を込めて振り返っている。「任務を受ければ、死力を尽くして遂行することが軍人の仕事。会社なら退社も選択肢にあるが軍人にはそれはない」。本土決戦を控えていた大本営は虎の子参謀の小沼を激戦のルソン島から召喚し、終戦を東京で終えた。小沼は、玉音放送の陸軍立会人としてその場にいた。戦後は第一復員省に勤務したが昭和22年には退職。7人いた子どもを育てるため守衛として電通に採用され、その後管理職となり昭和33年には電通の印刷工場長、その後子会社の社長となり昭和53年に退職。昭和45年の陸軍士官学校の会報への投稿文が残されている。タイトルは「霜を踏んで堅氷に至る」、易経からの引用で霜を踏んで歩く季節になればやがては氷が張る季節が来る、という意味。大事の前にはその前兆が現れるということ。論理的分析力を持ちながら陸軍参謀としての高評価を受けた自身を振り返り、それでも陸軍としての実質的な戦力向上に資することが叶わなかったことには忸怩たる思いを持っていた。しかし信念を持ちできることはやり通したという気持ちはある意味での満足感にはつながる。霜を踏んで堅氷に至る歴史の厳粛さに襟を正したい、というのが小沼のメッセージだった。平成元年1月、人生に幕を閉じた。本書の内容は以上。