甲子夜話の筆者として知られる松浦静山は本名は松浦清(まつらきよし)、江戸時代中期の大名で肥前平戸藩の第9代藩主である。松浦清は天保12年(1841年)に82歳でこの世を去ったが、生まれたのは宝暦10年(1760年)浅草鳥越の平戸藩上屋敷。母は上屋敷に務める女中久昌だった。平戸藩ではその3年前に世子(藩主の後継者)の松浦邦が26歳で病死したため、急遽世子となった政信の初めての男子だった。幼名は女中腹だったため内々の儀とされ山代英三郎殿と呼ばれた。しかしその後も政信には嫡子が生まれず、英三郎は嫡子となり、政信も37歳で逝去したため12歳の英三郎は次期藩主となり清と呼ばれる。1774年にはじめて将軍家治に拝謁、安永4年に祖父の誠信が藩主を引退し、清が16歳にして藩主の地位につき、平戸藩主松浦壱岐守清となる。以後、47歳で隠居するまで藩主の地位についたが、甲子夜話の筆者として一般には「松浦静山」の呼び名が通っている。
江戸時代の大名は、時代を経るに従い、子孫を残すことに苦労する。理由はいくつかあるが、正室に由緒ある名家から妻をめとろうとする傾向が強くなり、公家や他の大名家の娘を正室とする。正室が生んだ場合でも江戸時代の武家の子育てには、乳母が登場するが、乳母にはお乳のよく出る武家以外の女性が選ばれた。育ちの良い女性はお化粧のために白粉を使うことが多く、江戸時代の白粉には水銀や鉛が使われ、その毒により乳児死亡率が高まった。成長しても障害を持つ子どもが多く、多くの大名子息が成人せずに亡くなる。乳母が身分違いの女性である場合、母乳を与えるにも遠慮があり、また将軍家の場合には乳母が赤ちゃんの顔を直接見えないようにしたり、赤ちゃんを一人で寝させておくなど、母のスキンシップや笑顔を見るなどの愛情を感じることなく育つことになる。こうしたことが子どもの成長に良い訳はない。徳川家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、53人の子女(男子26人・女子27人)をもうけたが、成年まで存命したのは約半分の28人だったと言われる。多くの大名家では、子を残すための知恵として正室以外に側室、妾を持つことになる。
松浦氏は、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津の滝口武者の一族とされ、水軍として瀬戸内を我が物とした渡辺党の分派という。松浦氏の数多くの傍流のうち、平戸を本拠とする平戸松浦家が興こり、のちの松浦氏となる。松浦隆信の代に、松浦惣領家や上松浦党をも従えて松浦半島を統一する戦国大名となった。隆信とその子の松浦鎮信は豊臣秀吉に従い豊臣政権の下で近世大名としての道を確立した。江戸時代になると江戸幕府政権下で平戸を城下町として平戸藩6万3千石を構えた。また松浦鎮信の次男松浦昌が元禄2年(1689年)に1万石の支藩平戸新田藩(植松藩)を立藩。同藩も明治3年に本藩に吸収合併されるまで存続、維新後は平戸松浦藩主とともに華族の子爵家に列した
甲子夜話は松浦清が隠居した後、文政4年(1821年)友人で大学頭であった林述斎が本所にいた清に過去現在を問わず、その知識を活かして後世に伝えたい事柄を記録しておいたらどうか、と進めたことから書き始められたという。文政4年11月17日は甲子の日だったため甲子夜話と名付けた。以降、清が没する天保12年まで20年にわたって書き続けられた。
甲子夜話が書かれたのは、清隠居後に暮らした平戸藩下屋敷、現在の東駒形2丁目辺り。上屋敷は浅草橋なので、現在なら駒形橋経由で通えるが、当時は吾妻橋あたりで、安永3年に橋が架橋されるまでは渡し船を使っていた。上屋敷の面積は14582坪、下屋敷は幕府拝領地の4900坪に加えて7500坪の抱屋敷(百姓地を購入)があった。敷地の大きさは東辺が190m、北辺250m。戸山の尾張藩下屋敷は136000坪だったというから、上には上があるが、それでも広大な土地である。一年間の生活費として平戸藩から1万石と360両を支給されていた。清は現役時代に14人、隠居後も男子11人、女子9人の子どもを設け、その母の数は7人。その他、身の回りのお世話をしていたのは20数名という。
下屋敷には、御目付、御台所役人、取締並、御徒などが詰めていたが、その他にも多くの下僕たちに加え、相撲取り、鍛冶師も住まわっていた。友人としては。隠居後は松平定信(楽翁)、黒羽藩大関括斎、林述斎などがいる。鼠小僧次郎吉や石塔磨き、神隠し、などの日本中の不思議な話、江戸市中の噂話、町人文化などが書き込まれた膨大な資料として、江戸時代の研究者にとっては人読書となったのが甲子夜話だった。本書の内容は以上。