江戸時代の水野家といえば、家康の母於大の方に連なる譜代の名家だが、6代の忠恒が享保10年(1725年)江戸城松の廊下で刃傷沙汰を引き起こして、水野家松本藩7万石は改易、水野家は信濃佐久藩7000石の旗本とされてしまった。本書はその後の水野家子孫たちがお家復興を遂げた物語。
復活のきっかけは享保16年(1732年)に誕生した8代忠友が9歳にして、将軍吉宗の後の世子となる家重の子三歳の家治(幼名竹千代)の御伽役として側に仕えることとなることから始まる。御伽役の選抜基準は1万石以下3000石以上の家の惣領で8-10歳のもので、同時に選ばれたのは名門の血筋で後に老中となる久世広明、若くして亡くなる関盛時。忠友は吉宗に可愛がられ、家重にも重用されることになる。12歳で信濃佐久の家督を相続した忠友は家治付きの西丸小姓に就任。宝暦8年(1758年)には小姓組番頭格西丸御用取次見習に就任、同年家治の将軍就任に向けて本丸御用取次に就任した。明和2年(1765年)には上総夷隅と長柄に1000石を加え合計8000石となり、同年若年寄に就任、忠友が将軍家治の側近職を24年にわたって精勤していることが伺われる。そして安永6年(1777年)側用人に就任、2万石の大名となる。1785年には老中兼側用人となり絶大な権力を握ることになる。
ほぼ同時期に幕閣で権力を握っていた12歳年上の田沼意次の経歴を追いかけるような経歴であった忠友は、1777年次女の八重姫と意次四男金弥に嫁がせるが、天明6年(1786年)意次が老中職を免職となると、金弥は八重姫と離縁している。意次の辞任は、家治の死が意次が紹介した医者による投薬が原因だったとする説があるが、意次の施策(全国御用金令、大和金峰山開発、下総印旛沼干拓)が中止になったことが主要原因だろうとする。没落する田沼家とは縁を切りたいという気持ちもあったのかもしれない。しかし天明7年松平定信が老中となると、翌年には忠友は老中を免じられた。しかしその後忠友が66歳にして再び西丸老中に就任、次期将軍家慶に仕えることになり、72歳に没するまで勤め上げた。忠友は前例がある場合にはそれに従い、意次のような機転や新規対応は好まず、定信と気があった。一生妾もおかず、暴飲暴食もしなかったことが長く勤め上げた理由だった。
田沼の息子を離縁した後、新しい養子としたのが水野家の末家旗本水野忠隣の養子忠成(ただあきら)25歳だった。忠成は奏者番、寺社奉行、若年寄、西丸側用人、老中格などを経て文政元年(1818年)57歳で西丸側用人のまま老中勝手係となる。悪徳政治家としての評価がある一方で、合理的で現実的、的確な判断をした政治家として家内では評価されたという。
譜代大名から旗本となり、当時は譜代として列していたわけでもない水野家に生まれ、偶然の積み重ねで政治権力を握り、将軍の寵愛を受けその立場を確固たるものとした。享保10年の松の廊下事件で譜代大名から旗本に転落した水野家の復興を成し遂げたのは、生まれながらに立て直しの宿命を背負った御曹司忠友と、婿養子に入り使命を持たされた忠成の二人の当主は、水野家を思う強い気持ちを結果につなげることができた。本書の内容は以上。