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意思による楽観のための読書日記

東大寺のなりたち 森本公誠 ***

著者は東大寺に入門して70年以上、東大寺の長老にして2004-7年に218世別当を勤めた。奈良の大仏で有名な廬舎那仏が建立されることになるのは、743年の聖武天皇による詔により、747年より鋳造が始まったとされる。その前身は、若草山麓に創建された金鐘寺(金鍾寺とも)が起源とのこと。728年に、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くした基王を弔うため山房を設け、これが金鐘寺の前身となる。741年に国分寺建立の詔が発せられ、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ金光明寺と改められた。749年には娘の孝謙に譲位、大仏の鋳造が終了、大仏開眼会が挙行されたのは752年。その後、754年に待ち望んでいた鑑真和上来日、大仏殿の建設も始められ、758年に完成した。

聖武天皇が即位したのは724年のことで、誕生した701年に制定されたのが大宝律令。710年に平城京に遷都したが、この遷都は天皇家の意図とは異なり藤原不比等の動きだった。持統の後は元明、元正と女帝が続いたが、男系の聖武天皇までのつなぎの意味合いが強く、この間、藤原家が勢力を増大させた。聖武天皇の即位は天武系、天智系、そして本人と妻までも藤原一族の血も引くことで、藤原家による政権支配力を一層増大させた。

廬舎那仏建立を決めたのは、基王の死去、長屋王の変、疫病の蔓延、天変地異による飢饉など、天皇の身の回りで不幸が続いたこととされるが、その背景には、中国の制度を模倣した律令制の行き詰まり、班田収授法の限界などがある。こうした事態に対する救いを国分寺・国分尼寺建立と廬舎那仏に象徴される仏教を、鎮護国家建設のシンボルとするためだった。740年恭仁京、743年紫香楽京への遷都は、聖武天皇なりの藤原一族への不満の裏返し、という意味合いも感じられる。749年に陸奥の国に金が見つかったのは、聖武天皇にとっては大いなる励ましとなった。しかし大仏建立や鋳造に伴う金、銅の採掘、精錬は地方への多大なる負担となり、建立工事は難航を極めた。大仏と大仏殿建立のような大規模工事は、国費を浪費、日本の国力を低下させ、聖武天皇の思惑とは正反対の結果として数々の問題が表面化した。さらに、東大寺に連なる平城京の各寺が富み栄える一方、租庸調の負担は激増。金精練に伴う、水銀中毒者や疫病による死者も多数出て、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、聖武天皇による政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。

その後、756年に聖武天皇が没した後、藤原仲麻呂が紫微内相になり、起こったのが橘奈良麻呂の乱。その理由は、東大寺造営で人民が苦しむのは政治無策のため、とした。758年には孝謙天皇が大炊王に譲位、仲麻呂は恵美押勝となる。仲麻呂は東大寺造営後の封戸5000戸の用途として、1000戸を修理、2000戸は三宝と常住僧の供養分、2000戸が官家功徳分として天皇家による仏事分とされ、これらを孝謙太上天皇と示し合わせて決めた。東大寺としてはそのほとんどが自家使用できるはずと思い込んでいたため、仲麻呂への不満が高まる。その後、この官家功徳分2000戸は東寺、西寺造営とされた。孝謙太上天皇はその後称徳天皇と不和になり道鏡を重用して、称徳天皇は配流、仲麻呂が除かれる。

東大寺にまつわる8-9世紀の歴史を概観したのが本書で、奈良の大仏がある場所として有名な東大寺を、東大寺側の視点からの記述が特徴。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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