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意思による楽観のための読書日記

人事の日本史 遠山美津男、関幸彦、山本博文 ****

古代から近世までの日本史を振り返り、「人事」の本質について考察してみた一冊。視点は次の三つ。1.歴史上重要な人事の決まり方 2.歴史上の人物たちは人事に対してどのように考えふるまったか 3.日本における人事に対する論理はあるのか 経済雑誌「エコノミスト」2003-4年連載の記事をまとめた本書。読者のサラリーマンたちにどのように訴えるのか、朝礼の挨拶で使えるフレーズなどを意識したと思われる。日本歴史と思うと遠い昔の話、しかし人事と考えれば身につまされて自分に引き寄せて考えられるというもの。

確立された人事制度として記録に残る日本史最古のものと言えば、冠位12階と憲法17条、厩戸皇子制定とされるが、内容から書かれた内容は天武朝以降のものと考えられる。官職の等級ではなく、組織に属する人間の上下関係、トップとの距離を服装により分かるようにするという仕組みで、人事権、つまり誰がそのランキングを決めるのかを明らかにしたのが冠位12階。トップの「徳」が後の四位に相当し、律令制度の正一位から従三位の貴族は範囲外で、蘇我馬子や厩戸皇子などは冠位がなく、授ける側だった。憲法17条は今の憲法とは違い政府職員の服務規程。「和を以て貴しとなす」は決められたランキングには従うこと。その他、人事が及ぼす悪影響を排除し、嫉妬などすることがないように、などを規定していた。

大化改新の引き金を引いたのが乙巳の変、当時の中大兄皇子は20歳、中臣鎌足が32歳、翌日皇極帝は弟の軽皇子に譲位、中大兄皇子の叔父として孝徳帝となる。つまりこのクーデター時点での中心人物は軽皇子であり、中臣鎌足も軽皇子に仕えていたはず。クーデター直後の人事を見ればそれは明らかで、蘇我氏の中でもクーデターに加担した蘇我の倉山田石川麻呂が蘇我氏族長になっている。軽皇子に姻戚、地縁で結びついた人脈で政権を固め、制度改革を企図したのが大化改新だった。部と屯倉、臣・連・国造などを廃止し、班田収授法と戸籍を定め公地公民を制定した。当然、従来からの豪族は大騒ぎしたが、世襲の土地と仕事の代わりに官僚としての能力評価に従い官位と職務を与え、政府組織を合理化しようとしたのが大化改新。人事制度の国家レベルでの大改革であった。遣隋使、遣唐使で明らかになった隣の大国の制度に対抗するのが第一の目的で、朝鮮半島における権益を意識しての改革だった。

しかし、百済が滅亡、白村江の戦では大敗、中大兄皇子たちによる急激な改革に不満を持つ地方豪族に支持された大海人皇子が政権を奪取する。天武帝が実際に行ったのは、大化改新の徹底的な施行。高級官僚となる126の豪族に真人、朝臣、宿禰、忌寸を与え、のちの貴族階級となる官位五位以上となると同時に、下級官僚にしかなれない豪族を情け容赦なく分別することで、この後明治時代まで続く貴族階級の仕組みの施行を強行した。

その後、正一位から従三位が「貴」、四位、五位が「通貴」で150名程度おり、位階が高ければ重要な上級官僚として任じられた。米換算で現在貨幣価値に見直すと、年収で従三位が1億230万円、正四位上が4965万円、従五位下が1913万円。そこからは下級官僚となる正六位上は165万円と、上級と下級の間には大きな格差があった。ちなみに正一位は2億7338万円で従三位以上が年収1億円となる。五位以上になるのは父祖の地位と身分、家柄で決まるため、この格差は生まれた瞬間決められることになる。

中世では、朝廷と武者の力のバランスを図った平清盛、人心をつかむ演出にたけていた源頼朝、査定に泣いたのが義経、京から天下りで地位をつかんだ大江広元、大江氏はその後相模の毛利荘を領地として、毛利姓を名乗り、この子孫が南北朝時代に安芸の吉田荘に移り土着、守護の武田氏を打倒した。安芸国内の小早川氏と吉川氏に二人の息子を養子に行かせ、取り込んで、さらには長門、周防の大内氏、出雲の尼子氏を滅亡させて、中国地方を統一したのが毛利元就。最後には幼少より元就を補佐して強大化しすぎた井上一族をも滅ぼして、一族の結束を高めた。腐心したのは身内の統制、人事の一部としての養子縁組や調略で身を立てた。

人事は近世において数多い出世と不遇の物語を生む。徳川幕府初期には本多正信の子、正純が年寄りとなり、秀忠時代には家康時代からの側近土井利勝を重用した。正純は福島正則改易に際し秀忠と対立、その後不興を買い失脚、利勝一人が権勢を誇る。しかし秀忠の後を家光が継ぐと、酒井忠勝も重用され、利勝と忠勝が重要案件を決め、新たに松平信綱、阿部忠秋、阿部重次の若手年寄りを任命、日常案件を任せる、バランス人事を実行した。その後、綱吉の時代に老中に昇進する出世コースが決まる。譜代の3万石以上で城持ち大名の中から奏者番を務め、認められると定員4名の寺社奉行で寺社訴訟を受け持つ。その政治経験から家格が良ければ若年寄り、大阪城代、京都所司代に出世したものの中から老中が選ばれた。中でもメインルートが寺社奉行→大阪城代→京都所司代のコース。就任時の平均年齢が奏者番38.4歳、若年寄41.4歳、大阪城代、44.0歳、京都所司代42.8歳、老中45.3歳。

一万石未満でも将軍お目見えが旗本で出世の道があり、それ以下が御家人で出世の道はほとんどないため、両者には大きな身分差があった。旗本の中から、書院番、小姓組に入る家格のものは、各10組50名のメンバーとなる。旗本は合計5000名、両番組家格は1000人ほど。そこに選ばれない旗本は大番、新番、小十人組の勤務となるが、それにもアサインされないと無役となり小普請と呼ばれ、知行100石あたり1両の小普請金を上納するため生活は苦しかった。一方、両番組に登用されると、「布衣(ほい)」という朝廷でいうと六位相当の格式となり、儀式での布衣着用が許された。布衣では、書院番、小姓組頭、先手頭、徒頭、小十人組頭、使い番となり、さらにその中から目付が選抜された。目付の定員は10名で、目付を経験すると大名格の従五位下である遠国奉行として長崎、京都、大坂の町奉行、奈良奉行、堺、駿府、日光、佐渡奉行などを務める。そして出世の頂点が町奉行か勘定奉行に登用される。勘定奉行の就任年齢平均は54.1歳、町奉行が51歳。布衣となるには、若年寄りが人物調査をして学問、身持ち、家の統治、などを調べて吟味する。

ノンキャリア組の旗本でも昇進したのが勘定奉行となった荻原重秀。江戸時代260年間で勘定奉行経験者は213人。両番組から目付、遠国奉行を経たのが154人、勘定組頭、納戸頭、代官から勘定吟味役という次官から勘定奉行に上がったのが59人。つまり、たたき上げである勘定所系統を一切経験せずに昇進しているキャリア組が大半であり、ノンキャリア組では、勘定吟味役を必ず経験するということ。最初にこのノンキャリアの道筋を付けたのが荻原重秀で、綱吉時代に勘定頭差し添え役として貨幣改鋳を指揮して才能を見出され、家宣時代には目明し廃止という将軍からのお達しに異を唱え、目明しの重要性を訴えて、再びその意志の強さと、勇気により家宣に見出された。こうして、二代の将軍に信任されたことで、格上の寺社奉行や町奉行にも意見を上申できたことが、それ以降のノンキャリアに道を開くことになった。

慣例になっていた昇進希望者による礼金は、側用人田沼意次時代に大いに活用され批判も受けた。旗本の森山孝盛は知行400石の旗本だったが、両番ではなく大番の家格。格下の家格の者が礼金で出世していくのを横目で見て、大借金を重ねることで1781年から何度も猟官活動にいそしむがなかなか成功しない。1784年になり親類縁者に礼金合計245両を支払って、小普請組支配組頭を任じられるが、大きな借金を抱えた。役料から毎年100俵を借金返済に充てて3年ほどかけて返済したという。

能力主義で試験制度を取り入れた松平定信、その定信に昇進を阻まれたのが火付け盗賊改めの長谷川平蔵。大奥女中の昇進に必要だったのが上司による引き、左遷を恐れずたたき上げで出世した川路聖謨などなど。全390pほどにもなる読み応えのある一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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