日本列島には狩猟・採集社会があり、そこに稲作民が渡来してきて、混在しながら、やがて稲作民が多数を占めていった、と雑に古代以前の日本列島の歴史を理解していると、本書に気付かされるところが多い。日本列島には水量が安定的に確保できる平地は少なく、あっても風水害など災害に見舞われる。山地や河川が多いため、多くの列島住人たちは山地での焼畑農業や河川、海辺での漁撈生活に依存していた。また、当初の稲作は灌漑技術や労働力集約が不十分なため、収穫量も不安定で少なく、脱穀や精米技術も未熟なため、稲作だけでは十分なカロリー収得ができなかった。本書に記載の山民、海人の生活は、ほんのすこし前の現代まで、日本列島のいたるところで営み続けられてきた基本的な農耕民の暮らしである。
魏志倭人伝には、海人の黥面文身や漁撈生活が描かれている。玄界灘に面した北部九州や朝鮮半島南部の多島海では、漁撈生活を営む多くの漁撈民が生活していたことが忍ばれる。記紀の神話にも海彦山彦伝説が記され、浦島伝説などからも漁撈生活が身近にあったことが分かる。日本列島は四方を海に囲まれ、河川も多いため、漁業を生活の糧を得る手段としていた人達が多かったことは想像に難くない。一方、山で暮らす山民には、狩猟民や焼畑農業で暮らす人々がいた。特に山で特異な職業がマタギ、木地師、伐木、箕作、漆工、鉱山師、たたら、炭焼、鷹匠、修験などの山地資源を利用して、平地民の要望を満たす作業を仕事とする人たちが暮らしていた。
焼き畑農耕では、アワ、ソバ、大豆、小豆、ヒエ、麦、里芋が育てられていた。これは、書紀に記された保食神(ウケモチノカミ)の死体には、牛馬、アワ、蚕、ヒエ、稲、麦、大豆、小豆が生っていたとされるが、この逸話と殆どが重複する。中国南部の焼き畑耕作での収穫物とほぼ同じであり、渡来民たちが日本列島に持ち込んできたものが、こうした作物と輪作などの耕作技術であったことが想像できる。同時に、現代における山地農業の耕作物とも重なるのである。現代の山地農業は奈良時代のはじめには基本形が完成しており、雑穀輪作型焼き畑耕作が1000年以上も継承されてきたことが分かる。日本列島では地域ごとに類型が見られ、北上山地では大豆・アワ、奥羽・出羽・上越・頸城山地ではソバを初年度耕作する夏焼のソバ型、中部日本ではヒエ・アワ、大豆、小豆、四国・九州山地では多様な雑穀を輪作、八丈島・沖縄・南方諸島では芋耕作を主とする。
一方の漁業民では、河川における釣り、網、ヤス、梁・網代などによる陥穽漁法、鵜飼、池干しなどと、近海での定置網漁、海藻や貝類などの定住型漁業が見られる。貝塚遺跡から見られる食生活からは、淡水魚で鮭、マス、アメノウオ、ナマズ、ニゴイ、ウグイ、カマツカ、コイ、フナ、オイカワ、ヒガイ、ウナギ、カジカ、アカウオの14種だという。海人は古代には海部(あまべ)と呼ばれた。折口信夫は卜部であったと主張。海士人部(あまひとべ)から「あまべ」と短縮され、単に「あま」と呼ばれることもあった。稲作民が渡来してくる前からの住民が多く、隼人、蕃人と見られたのかもしれない。亀卜を行い、浦部→卜部ともなった、というのが折口説である。信仰は船霊信仰とエビスガミである。中でもえびす信仰は海上の安全祈願から平地民の商業信仰にも広がり、ヱビス神、異人を意味する言葉からくる信仰である。海中、海の彼方よりもたらされる富という考え方で、商業やマレビト信仰にもつながる。本書内容は以上。
日本列島の住民は実に重層的で、単純ではないことがよく分かる。古代、ヤマトに政権があり、古墳の分布をみると近畿、中国、中部、関東までの地域を統一した、という歴史理解はあまりに表層的で一面的であることが実感できる一冊。