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意思による楽観のための読書日記

地名で読む京の町(上)洛中・洛西・洛外編 森谷尅久 ***

地名は長く残るその地の歴史を表すと言われる。京都は桓武天皇が都として建設した8世紀以来、長く日本の中心都市として栄えてきたため、平安貴族、室町幕府を支えた新興武士たち、京の町を大きく変えた秀吉、そして江戸時代は幕末の動乱、維新後は日本近代の夜明けを経験してきた都市。漢語のみやこを表す普通名詞だった「京都」が平安時代の間に固有名詞となった経緯があるという。本書で言われる洛中洛外という境界線も時代とともに、もしくは使い人により少しずつ変化すると言われる。本書では上京、中京、下京を洛中、洛外は東西南北に分けて使用。洛東は左京区南域、東山区、山科区。洛西は右京区、西京区。洛南は南区、伏見区。洛北は北区、左京区北域。洛外として宇治、八幡、大山崎、向日、長岡を紹介。

縄文遺跡は北白川一帯で、弥生遺跡は桂川流域から盆地西南部の集落が見つかっているが、ヤマトに政権が確立されるころからは、京都盆地の氏族もヤマト政権による支配力が影響してきた。盆地西南部に多く出現した前方後円墳から、京都盆地にも縣が設定、政権の直営地、公領として存在していたことが分かっている。ヤマシロとは山の国、5-6世紀までは山代、畿内国制成立後は山背となり、ヤマトの後背地と位置づけられる。5世紀になると渡来人が多く居住、北域には賀茂氏、出雲氏、小野氏、秦氏、土師氏、八坂氏、南域には百済王(こにきし)氏、高麗(狛)氏、が大陸、朝鮮半島より移住していた。彼らは水稲稲作、灌漑、鉄器、酒造、橋建造や石積みなど土木、養蚕と機織りなどの技術集団でもあった。彼らが住み着いた地名には、太秦や蚕ノ社などその技術と開発の歴史が刻まれる。

京都御所は、明治天皇東行により、禁裏付近の宮家、公家の屋敷跡地が大正天皇時代に整備され、現在の御苑になった。北は今出川通、南は丸太町通、東は寺町通り、西が烏丸通であるが、度々の火災で場所は徐々に変化してきた。御所東側の河原町通の東に通る西三本木通りは宝永大火で東洞院通の竹屋町、出水通までの三本木地区の住民が移転させられた場所に新しく付けた地名。その西側の新烏丸通はこれも移転前の地名を懐かしんで付けられたという。京の七口と言われる洛外への出入り口が御所東側にはいくつか見られる。出町は「ここから洛外に出る町」、大原口町は大原に向かう道の出入り口。荒神口は北白川から坂本に抜ける山中越の出入り口で、荒神はここにある荒神さんのこと。今出川通には出雲路、鞍馬口もあるが、出雲路は、出雲からの移住者が住み着いた地域、鞍馬口は蔵馬へ向かう出入り口である。

今出川通の北側に位置する同志社大学の創立地は、現在新島襄記念館のある寺町通沿い。烏丸通沿いには、アメリカ人宣教師ヴォリーズ設計の大丸ヴィラがあり、その北側には平安女学院明治館、聖アグネス教会の赤レンガが目を引く。御所近辺は、維新時に空き地ができて、その時期に多くの洋館風建築物が建設されたため、近代名建築展示場ともいえる地域である。

東西本願寺の移転歴史は、親鸞以降、比叡山との確執、日蓮宗や六角氏からの攻撃、織田信長による宗教迫害と弾圧の歴史でもある。秀吉により西本願寺の地を得たが、徳川幕府は宗教権力の集中を避けるため、顕如に対立する教如に東本願寺の地を与え、現在に至るが、今でも対立の火種はくすぶり続ける。その南には東寺、今はなき西寺、羅城門跡がある。平安京における東京極大路だったのが新京極あたりで、秀吉により寺が集められたのが寺町、今では京都一番の繁華街。新京極に面した誓願寺には「迷い子みちしるべ」という石標があり、明治時代から繁華街だった当地で迷子になった人、探す人、見つけた人が張り紙をしたという。

その他、壬生、立売、北野、西陣、衣笠、御室、清滝、花園、太秦、嵯峨、嵐山、鳥居本、愛宕山、三尾、大原野、松尾、桂、宇治、八幡、大山崎、向日、長岡の各地を紹介。本書内容は以上。

地名にまつわるエピソードは古代から維新後まで、日本の歴史を俯瞰する、とはこのこと。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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