現代人は日本歴史を学び、縄文、弥生、古墳時代などの文明の広がりや、大陸、朝鮮半島からの人の移動を考える時、日本地図を思い浮かべるだろう。古代の人達は、自分が移動する場所、暮らす場所をどのように認識していたのか。庶民は別として、すこしインテリだった人たちは、自分たちの先祖や来し方の想像をめぐらしたに違いない。ヒントになるのが、下鴨神社に伝わっていたという18世紀に残された写本「延暦24年(805年)地図(行基図)」とよばれるもので、壱岐、対馬、九州、屋久島、種子島、隠岐、四国、瀬戸内海、淡路島、本州、能登、佐渡、伊豆大島が書き込まれ、66州の国名が記されたもの。記紀に書かれた日本神話での国産みにおける「大八州」が淡路島、豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、隠岐・佐渡洲、越洲、吉備子洲であり、その周りの小島が対馬、壱岐、佐渡である、という認識が理解できる。
朝鮮半島から、対馬を経由して日本列島に来るルートは北と南の二種類あった。北ルートは対馬上県から沖ノ島経由で宗像神社のある神湊、南ルートは対馬下県から壱岐を経由して呼子、唐津に到達するものである。魏志倭人伝は南ルートで、邪馬台国まで北九州付近をわざわざ避けているようにも思える。北ルートの到達する北九州地区に残る古墳や遺跡を調べると出雲地方との共通性を見つけられる。推測となるが、出雲・北東九州勢力と西北九州・中部九州勢力の間には3世紀当時、相当な緊張関係があったのではないか。その後の神武東征神話に相当するような日向から国東半島経由による瀬戸内東行、吉備勢力との連衡、摂津河内上陸、ヤマト政権樹立と出雲国譲り神話などの関係に思い当たる。
宗像三女神の位置関係と相似形をなすのが舞鶴上息津嶋神で、冠島、磯葛島
、宗像神社辺津宮に相当する坂代神が与謝郡内陸にあったと推定されるという。朝鮮半島からのルートであると同時に、靺鞨、粛慎を意識しているとも推察している。日本海側の砂浜からは今でも無数の石鏃が発見できる。続日本紀などにも記されるこうした石鏃は9世紀にも度々発見されたとする記録があり、当時の出羽、越、などの国司たちが、新羅の海賊だけでなく粛慎、靺鞨など北からの侵入に神経をとがらせていたことが忍ばれる。
南部九州には、大陸・半島からの人々とは異なる集団がいた。隼人と呼ばれるこうした人達にも、薩摩、大隅、阿多、甑というグループに分かれていたことが、発見される墓制の種類から推察できる。こうした隼人たちもヤマト政権樹立後、集団で大和・山城平野に移住した、これも15世紀の文書、さらに墓制から分かるという。その地域は河内、丹波、近江などで、山城綴喜郡には大住という地名があり、大和宇智郡古墳では隼人特有の力士埴輪が見つかっている。
こうした古代以来の人々の移動の結果は、東北、東日本、西日本、九州それぞれにおける文化の違いとして今でも残っていることは、伝統的なまつりや習慣、言葉にも残るため理解しやすい。一番わかり易いのが言葉による東西の違い。その境界線は多くが日本海側が親不知から富山、石川、滋賀、三重の東の県境により東西に分けられる。「買った:買うた」「ナス:ナスビ」「借りる:借る」「ナノカ(七日):ナヌカ」、「居る:おる」「酸っぱい:酸いい」など。アイヌ語の「べつ」「ない」が「大きい川」「小さい川」を意味することが有名だが、その境界は山形北の県境から大崎平野・石巻までを結ぶラインである。
神話にも三系列あり、1.高天原系 2.出雲系 3.日向(筑紫)系である。中でも高天原は具体的場所というより、地上ではない場所。その後の延喜式で分類された畿内と七道が当時の地理認識を示す。九州が西海道、四国・淡路・紀伊が南海道、中国瀬戸内側が山陽道、中国日本海側が山陰道、若狭から越後までの日本海側が北陸道、伊勢志摩から上総・常陸までの東海道、近江・美濃・飛騨・信濃。上野・下野・陸奥・出羽までが東山道である。これが現代の機構分類を示す気象区とほぼ一致するのは面白い。
このあと、東北・北海道、信濃の国、関東、出雲、瀬戸内海、南九州と南西諸島がそれぞれ紹介される。1986年発刊の書であり、それ以降の発見、論説は含まれないが、読み応えある一冊である