バッテン長崎の人

長崎の良いところ発信、植物観察、旅日記、日々感じること、自分での新発見、写真付きで日記や趣味を書く

私の恩師。

2015-03-09 21:01:00 | 長崎物語


私の恩師。

中学時代の先生で、先生が我が中学に赴任してきたのは私が中学1年生の時、恩師もまだ先生になって、3~5年位の時、金八先生どころではなかった。

国語の先生でしたが、スポーツ万能、絵画は、彫刻はプロ級。私はその恩師からは直接に授業受けたのは3年の時、我がクラスの担当先生でもあった。

ただ、私の従兄弟が他の学校で、授業を受けていて、よく名前は耳に入っていたし、中学1年の時から私は図書部の部長やっていて、恩師はまた、図書部

の担当をされていたので、放課後いろんな指導を受けた。前の中学の失敗談や、面白いこと沢山聞いた。

恩師は我々が3年になったとき結婚された。我々も式に参加したかったが、我々だけが教え子ではなかったので、参加されなかった。心残り。

我々の学校は暴れん坊が多く、他校とのいざこざが多く、その処理に随分と心痛めておられた、孤軍奮闘であった。他の先生方は揉め事は嫌がりまた

年もとっていたので。日本刀持ったり、ナイフ、チェーンもっての騒動起こしていたので恩師も命懸けのところがあった。

それでも、何時も事に当たっていた。だから、全校生徒の信頼も厚く皆が尊敬をしてた。大学時代ボクシングであったことも、恩師がいざこざの処理に

回されたのかもしれない。

恩師はよく戦争のことを話された。戦士ではなかったが、5~6歳の頃は中国にいて、弾丸の飛び交う中にいたという。

戦争の話を良くしたのは、戦争の惨さを語り、今後2度と戦争があってはならないと言う心から話していたのだと思ってる。

私は人生の折り目折り目によく合いに行っていた。なにか困ったことが起きた時も。相談ではなく、恩師にお会いすると、いろんな決断ができた。

中学卒業して40年位経った頃、年賀状に貴君ほど非情な教え子を知らないと書いてきた。年賀状は中学時代から欠かさず出していましたが、その年賀状を

頂いた10年くらい前に私の勤めていた会社が倒産して東京から長崎に帰ってきて、偶然にも恩師の家から歩いて10分位のところに移り住んだのですが

その時挨拶行って10年ほど恩師にお会いすることが無く、尋ねることもなかったので。その年賀頂いて1年後恩師の家に訪ねた。

恩師は一生を先生で過ごし、教頭に、なるのも、校長になるのも断り、生徒に授業を、人生を教えることに教員の一生を貫いた。

教え子が教頭、校長になっていたが。誰も真似のできることではない。

先日中学の同窓会のとき恩師に、山田、俺は120歳まで生きる、お前も着いてこいと、申された。