とどちゃんの縁側でひとり言・・・。

日々の生活の中で見たこと感じたことを記録していきます。

臨済宗について・・・9

2006-10-03 22:47:13 | 宗教
今回は「十牛図」にみる禅の心を学習します。

「十牛図」とは、禅の修業の段階と悟りの境地を10枚の絵によってあらわしたものである。牛を探しだし、飼いならし、家に連れて帰るという物語だが、この牛はただの牛ではない。人間が本来もっている「仏心」の象徴だ。


一、尋牛(じんぎゅう)

村人が牛を探し歩いている。この牛は、欲望や執着にまどわされない「本来の自己(仏心)」の象徴である。人間は自分のなかの仏心にきづかず探しまわる。この図は、悟りを求め、煩悩の世界から第一歩を踏みだした姿。

二、見跡(けんせき)

探しまわった村人は、やっと牛の足跡を見つける。まだ「本来の自己」を見つけたわけではないが、経典を読んだり師の話を聞いて、知識として、自分のなかにあることをなんとなく理解する。図は、ようやく手掛かりを得た姿。

三、見牛(けんぎゅう)

村人はついに牛の姿の一部を見る。しかし、まだ全体は見えない。修行により、はじめて「本来の自己」の姿を見て、わずかに悟りが開けた段階である。村人は牛のほうに歩みを進める。図は、全体像がぼんやり見えた自分の姿。

四、得牛(とくぎゅう)

村人は牛を捕らえ、手綱をかけるが、牛は逃げようとし、逃すまいと手綱を引く村人。まだはっきり正体がわからない「本来の自己」とそれを求める自己。努力して修行を続けなければすぐに見失ってしまう緊張感をあらわした図。

五、牧牛(ぼくぎゅう)

やっとつないだ牛は、村人に手綱を引かれて一緒に歩く。しかし、まだ手綱は離せない。厳しい修行の結果「本来の自己」を得たつもりでも、常に迷いや欲望が襲う。悟りを開いたのちの悟後の修行の大切さを説いてる図。

六、騎牛帰家(きぎゅうきか)

もはや牛は、村人を背に乗せても逃げようとしない。村人の心は安らかに笛を楽しみながら牛に乗って家に帰る。ついに「本来の自己」と求める自分とが同化した。求めようと努力しなくてもよい自由な境地をあらわした図。

七、忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)

牛の姿はない。村人だけが家にいて、牛を得たことも忘れ、ゆったりとくつろいでいる。悟りを得たと意識すれば、それは迷いだ。その意識すら捨て、「本来の自己」になりきっている図。

八、人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

牛の姿ばかりか村人の姿も消え、ただ空白の円がある。これを「空一円相」という。完全に自我を捨て、広大無辺な宇宙と一体になったかのような「無我の境地」いま、ここのいる自己は「空」。その境地をめざせという図。

九、返本還源(へんぽんかんげん)

美しい自然が広がっている。村人の修行や悟りとは無関係に、自然は最初からそこにあった。「無我の境地」にいたった村人は、時間も空間も超越し、ありのままの自然と一体になっている。万物が本来に返り、源に還るという図。

十、入鄽垂手(にってんすいしゅ)

村人が町へ出て、他人と接している。「鄽」は町、「垂手」はだらりと手をさげた姿をいい、お釈迦さまが何の印相も示さないのに、人々が自然にその教えに従うことを意味する。悟りを開いても禅の世界に閉じこもってはいけないという図。


今回ちょっと図を載せられないのですが、「十牛図」で検索しますと出てきますのでぜひ、検索してみてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一休さん

2006-10-02 22:40:42 | 宗教
すきすきすきすきすきすき愛してる~と言えば一休さんですが、
ちょうど、臨済宗の勉強もしてますし、この宗派のなかで私のような30代からまりの者には馴染みが深いのでちょっと一休さんについてお話しましょう。

一休さんは、アニメの中でも描かれている通り、元々は高貴な出です。
父は後小松天皇、北朝の第100代天皇です。
母は南朝の遺臣の娘、懐妊すると宮中から追われ、一休を民家で生んだと言われています。
幼名は「千菊丸」6歳で京都「安国寺」の象外集鑑のもとで出家、周建と称する。
ちなみに、アニメの様に少年期の一休は頓智を働かせるような軽妙な子供ではありませんでした。ひたすらものの本質を追求し、偽善俗悪を憎む真面目一途な少年でした。
ところで・・・私が見ていた一休さんのシーンの中でとても印象的だったのは、一休さんが1歳の誕生日、誕生日前に歩いていた一休さんは、餅を背負わされるのですが、それでもやっとの思いで立ち上がり、母の元へ歩いて行きます。
母としては、今後の運命も(立場的に僧として生きるか、殺されるか)解っていただけにその心情ははかり知れないものがあったと思います。
このお母様は、結構アニメでも出てきますが、大変気丈なお母様でした。
アニメでも、一休が母のあかぎれにと軟膏を持っていくのですが、出家した身である一休には会おうともせず、雪の中を追い返します。この時に、一歳の誕生日の事を思い出して、お付の者が一休からあずかった薬を泣きながら抱いていたと思います。
少年一休は、この母の気魂を心のよりどころに、17歳で西金寺の謙翁宗為に参禅、名を宗純と改めます。
一休はよほど謙翁の徳にうたれたらしく、21歳で師が病没すると、呆然として母のもとに帰ります。
強い母に叱咤され、石山観音で七日間の坐禅に入りますが耐え切れず、瀬田の大橋から入水自殺をはかりますが、それを寸前で救ったのは、密かに人を頼んで見守らせていた母でした。
この自殺未遂が、一休の内面を大きく転換させたようです。

ところで、子供の頃も頓智も働かず、自殺未遂までするなんて、じゃあ、何であんなに一休さんはアニメに取り上げられたり、有名なの?と思うでしょ?
一休さんの凄いところはこれからなんです・・・。
ちなみに、アニメの中で一休さんがお正月に、賑わう町の中でしゃれこうべを掲げて説法を解くシーンがあったの覚えていますか?
説法とまではいきませんが、「正月だといって浮かれてはいけない、確実に死へ一歩近づいているのだから・・・」と訴えていました。町の人は、石を投げたりしますが、それでも一休さんはやめません。
この話は実際に一休さんが行なったことのようですよ・・・。
さ~て、一休さんの話の続きはまたの機会に・・・。
じゃ~あね~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・8

2006-10-02 22:00:30 | 宗教
本日は、百丈懐海の教えを学びます。

禅の世界では、日常の行住坐臥すべてが修行となる。坐禅はもちろん食事も行、朝夕二度の勤行(誦経)も行。そして禅道場の一大特色として、「作務」がある。堂内の清掃や屋外の清掃、草むしりや畑仕事、雪かきなど、日常生活のなかに悟りを見いだそうとするものだ。

・・・作務と尊ぶ・・・

インド仏教の教えからすれば、出家者は頭陀行(乞食行)に徹し、生活の糧はすべて在家信者の布施によるとされていた。それが唐代末から宋代にいたる中国の禅僧たちによって破られていく。
六祖慧能の法脈を受け継ぐ南嶽派の馬祖道一は日常生活のなかで禅を実践し、その弟子百丈懐海は率先して牛を追い、大地を耕した。
百丈は高齢となっても労働をやめず、弟子達が見かねて「老師は休んでいただきたい」と頼んでもやはりやめない。やむを得ず弟子たちは百丈の農具を隠してしまった。その結果、老師は作務を休んだが、その日の食事をとらなかった。なぜ食事をしないのかと弟子たちがたずねると、百丈はいった。「一日作さざれば、一日食わず」。こうして禅道場に「作務」が定着していく。
禅道場の生活規則も百丈懐海がつくった。これを僧堂の清衆の生活規則なので「清規」という。
たとえば、禅堂はもちろん、食堂や浴室での談笑は禁止。合図はすべて音で知らせる。起床・就寝の時刻は木板を叩き、食事を知らせるのは鉄製の雲版、坐禅の開始は拍子木と種類も多く、鳴らし方もいろいろだ。
また、こうした清規のなかに、一山全員で労働にたずさわることが定められている。これが「作務」だ。
坐禅の前後に必ず作務を行なう。
「動中の工夫」といい、公案透過のためには畑仕事や堂内の掃除をしているときの工夫こそ大切とされる。


・・・食事五観文・・・

沈黙を守る禅寺の食堂。行である食事の前には必ず「食事五観文」をとなえる。

一つには功の多少を計り彼の来処を量る
(一、この食物が食膳に運ばれるまでには、多くの人々の苦労と天地の恵みがあったことに感謝します)

二つには己が徳行の全欠と忖って供に応ず
(二、自分の修行が、食事をいただくのにふさわしいか反省しつついただきます)

三つには瞋を防ぎ過貧等を離るるを宗とす
(三、この食物に向かって、貪る心、厭う心を起こしません)

四つには正に良薬を事するは形枯を療ぜんが為なり
(四、この食物は生命を保ち、修行を続けるためには必要な良薬と考えていただきます)

五つには道業を成ぜんが為めに当に此の食を受くべし
(五、修行を通じて悟りを得るために、この食事をいただきます)

と、まあ、なんとも私達の生活の中でも取り入れたい教えもありますね。
特に、食事に関しては納得です。
さて、次回は「十牛図」に見る禅の心を学習します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・7

2006-09-30 21:50:29 | 宗教
・・・達磨の四聖句・・・

お釈迦さまから二十八代目の菩提達磨は中国禅の始祖といわれている。その教えは、六祖慧能によって「達磨の四聖句」としてまとめられ、現在にいたるまで脈々と師資相承されてきた。禅の教化伝法にとって四聖句は基本スローガンである。

・・・教化別伝・・・

お釈迦さまが教えを説いた2500年前、インドにすでに文字はあったが、宗教的教えを文字にすることは冒涜だと考えられていた。お釈迦さまの入滅後、摩訶迦葉ら弟子たちは、師から聞いたとおりを復唱しあって、教えを整理した。これらがのちに、サンスクリット語やパーリー語の経典となった。
「教化別伝」とは、お釈迦さまの教えを集大成したこうした経典のほかに別の教えがあるのではない。
経典の心、すなわちお釈迦さまの悟りの境地を坐禅や日常の修行のなかから直につかんで、それをまた、悟りの境地を求める弟子に、同一レベルで直接伝えていくことをいう。
悟りとは何ものにもこだわらず、何ものにも影響されない絶対的な自己を自覚することだから、その自覚の境地は、文字や言葉では表現しづらいのである。
つまり、お釈迦さまの教えが経典や戒律としてまとめられる以前の、深い禅定によって得られたお釈迦さまの悟りの体験を尊び、言葉や文字では伝えにくいこの教えの真髄を、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることを「教化別伝」というのである。

・・・不立文字・・・

禅ではお釈迦様の悟りの体験そのものを尊ぶ。その悟りとは、坐禅や日常の修行を重ねるなかから直観的に到達するものである。
お釈迦さまは菩提樹の下で深い禅定に入り、暁の明星を見てハッと悟りを得た。
「心性本清浄」
迷いや欲望や知識を捨てたとき、人間は広大無辺な宇宙と一体化し、こだわりのない清浄な自己に到達する。それは周囲の何ものからも影響されない絶対的自己で、生も死も超越した「空」の世界である。
この境地は、やはり修行の体験をとおして、修行僧が自覚するしかないものだろう。
「拈華微笑」の教えで示されたように、お釈迦さまの悟りの境地は言葉や文字では伝えることはできない。
また、その境地を師から弟子へ伝えていくとき、文字は不十分な効果しかもっていない。だから臨済宗であ、特定の経典を読まなくてはならないという制約はない。
「不立文字」とは言葉や文字を否定するのではなく、その限界を知り、まず自ら体験したあと、経典・語録の言葉や文字を味わうことをさしている。

・・・直指人心・・・

そのまま読めば「人の心を直にさすと」となる。つまり、人心とはすなわち仏心。人の心は本来仏様の心と同じものだというのである。
「心性清浄(人間の心は本来清浄なもの)」というお釈迦さまの悟りを自分のものとし、こだわりのない広大無辺な無我の境地「空」何ものにも動かされない本来の自己の発見。これが「仏心」である。
しかし仏心は、いかに経典を読み、書物を読んでも発見できるものではない。禅の修業とは、自分を見つめなおすことであり、書物を読んで思考をめぐらせたり分析したりすることではない。眼を外部に向けず・徹底して自己の内奥を見つめつくす体験にある。そして、その方法が坐禅であり、日常の修行なのだ。

・・・見性成仏・・・

達磨の四聖句の最後、最も重要なのがこの「見性成仏」だ。
結論からいえば、本来そなえている仏性(仏さまになれる本性)を自覚すれば自ずと仏になれるということである。
お釈迦さまが菩提樹の下で坐禅を組み、多くの煩悩と闘いながら開いた悟りそのものなのである。
人はみな本来、仏心「仏の慈悲心」をそなえているのに、それに気付かず迷ったり、煩悩に悩んだりしている。まさに人間は「未完成の仏」だ。
中国の臨済義玄は「自分のなかの一無位の真人(あらゆる束縛から解き放たれた絶対的解脱者)が五官を出たり入ったりしている。早くそれに気づけ」といった。
「見性成仏」とは、坐禅や日常の修行に徹して自己の仏性を見つめつくし、悟りを開いて仏陀となることを修行者に要求した言葉なのである。
自己の仏心に到達することができれば、人間として完成されたと見ていいだろう。


・・・啐啄同時・・・

「啐」とは、雛がかえるとき、内側から卵の殻を吸ったりつついたりすることで、「啄」とは親鳥が外側から卵の殻をつつくこと。修行僧が雛で、師家が親鳥である。まさに悟りに達しようとする機微をさす禅語だ。


・・・以心伝心・・・

師資相承される禅の伝法の方法は、特別な言葉によるものではない。師弟が無心のまま問答し、両者の心がひとつになったとき、印可となる。それはまさに「以心伝心」心から心へ、宗教的体験の共有である。

・・・殺仏殺祖・・・

「仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺す」この臨済義玄の言葉は、既成概念を捨て、徹底して自己を見つめよという意味。そして、殺すに殺せない絶対的自己を根底に置いて、「随処に主となれ」と教える。

・・・悉有仏性・・・

「涅槃経」に「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。すべての生きとし生けるものには、ことごとく仏性がそなわっているという意味。それを確信して修行に励むことを臨済宗中興の祖白隠慧鶴は教えた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・6

2006-09-29 23:26:42 | 宗教
今日からは臨済宗の教えについて学習しようと思います。
まずは拈華微笑の教えから・・・。

禅とは、お釈迦様が深い瞑想のもとに悟った「無我の境地」を坐禅や作務をとおして体験し自覚すること。こだわらず、とらわれず、迷いも欲望も苦悩もない、天地と同化した絶対的境地。それは人間が本来もつ清浄な仏心そのものだ。禅の修業はそこをめざす。

・・・無我の境地を伝える・・・

「心性本清浄(人間の心は本来清浄なもの)」という、お釈迦様の深い悟りの体験が禅の教えの根本である。しかし、この無我の境地を言葉や文字で表現するのは、とてもむずかしい。
その境地を伝えようとしたお釈迦さまの物語が「大梵天王問仏決疑経」にあらわされている。のちに「無門関」という禅書にも引用された有名な「拈華微笑」の物語だ。

マガダ国の首都ラージャ・グリハの王舎城の東北に、禿鷲の飛びかう霊鷲山がそびえている。お釈迦さまがその地で説法されるというので、多くの弟子や信者が集まっていた。
聴衆は、どんな話をされるのか、ひと言も聞きもらすまいと期待してお釈迦さまを見つめていたが、お釈迦さまはいつまでたっても口を開こうとしない。
そのうち信者のひとりがきれいな蓮の華をお釈迦さまにささげた。
お釈迦さまはその蓮の華を持って集まった人々にサーッと示し見せた(拈華)が、やはり黙ったまま。
弟子も信者もなんのことやらわからず、呆然として不思議な思いにとらわれていた。そのとき、高弟のひとり摩訶迦葉だけがにっこりとほほえんだ(微笑)。お釈迦さまの伝えたい心、そして悟りの境地が心をとおして摩訶迦葉の心に伝わったのだ(以心伝心)。
お釈迦さまはこういった。
「私には、正しい仏法の教えの真髄である「涅槃妙心」(悟りの不思議な心)「実相無想」(現象に執着しない自己)という微妙な教えがある。いまそれを文字によらず、教えのほかに別伝として摩訶迦葉に渡した。迦葉よ、頼んだぞ」

・・・禅の独特の世界が展開・・・

この「大梵天王問仏決疑経」は現在の研究ではインドではなく、後世中国でつくられたものということらしい。
「拈華微笑」の物語も歴史的事実ではないであろうが、ここには師と弟子の心がひとつとなって正法を伝える、禅独特の世界がはっきりと示されている。
蓮の華をとりあげて、聴衆に示したお釈迦さまの心境と、その行為を見てほほえんだ迦葉の心境は同一で、二人の心が涅槃妙心、実相無想そのものとなっている。「拈華微笑」の教えは、生き生きとした宗教的生命の伝承の象徴なのだ。

・・・師資相承・・・

禅の悟りは言葉や文字であらわせない宗教的体験のため、弟子は師にそれを認められてはじめて悟りを得たといえる。そして、師弟が同一の境地に達したとき、師から資(弟子)へ法脈が受け継がれたことになる。




我に正法眼蔵、
涅槃妙心、
実相無想、
微妙の法門あり。
不立文字、
教外別伝にして、
摩訶迦葉に附属す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・5

2006-09-28 17:20:50 | 宗教
うお~っ!!休んじゃってダメじゃんねえ?
さあ、今回は前回の続き、「日本の禅三宗」についてです。
 
・・・鎌倉幕府と臨済宗の関係・・・

天台宗の厳しい弾圧を受けた栄西は鎌倉に下る。戒律を重んじる栄西の教えは、京都の公家文化に対抗しようとする新興の武家政権に受け入れられやすかった。
源頼朝の妻政子や二代将軍頼家の援助で鎌倉に寿福寺を開創。三代将軍実朝に良薬として茶をすすめ、その効能を説いた「喫茶養生記」を献上する。その後、鎌倉幕府の庇護を受け京都に建仁寺を開創した。
なお、寿福寺や建仁寺を天台密教と禅の兼修道場としたのは比叡山への配慮からであった。

・・・臨済宗と曹洞宗の違い・・・

道元が興した曹洞宗も修行の方法は坐禅である。しかし、坐禅に対する心構えがまったく違う。
臨済宗は坐禅を悟りに達する手段と考え、その最中、公案を思索し工夫する「公案禅」だが、曹洞宗は坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かって坐禅をする「只管打坐」。臨済宗の「看話禅」に対して、曹洞宗は「黙照禅」という。
また、曹洞宗は一般民衆のあいだに、臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士層にひろまったため、「臨済将軍、曹洞士民」といわれた。

臨済宗=本来の自己(仏心)に目覚めることが悟り
曹洞宗=修行の結果、仏になるのではなく、修行することが仏の行

・・・公案とは・・・

師家が修行者に授けて工夫させ、その見解を点検する臨済宗独特の教育課題。もとの意味は役所(公府)が発する法令(案どく)のこと。法は絶対で私情を挟むことができない。それと同じく、大悟した中国の禅匠たちの言行は、後世の修行者が分別や知識で解釈しようとしても意味をなさない。ゆえに「公案」といわれる。

・・・黄檗宗とは・・・

黄檗宗は、1654年(承応3年)明僧隠元隆によって伝えられた。
隠元は中国臨済宗楊岐派を継承する臨済正伝の禅匠である。中国臨済宗の法灯と明代に制定された仏教儀礼を日本に伝え、停滞していた禅界に新風を吹きこんだ。また、「弘戒法儀」を著して、黄檗三壇戒会を開き、日本の禅界へ戒律思想と授戒法を伝え、「黄檗清規」の刊行により叢林の規制を一変させるなど、日本の禅宗中興の祖師である。
大本山は京都宇治の黄檗山萬福寺。建物や仏具・仏像・所作等が中国風で、お経も唐音による黄檗宗独特の節回しである。異国情緒豊かな中国寺院が出現した観があり、鎖国下で留学が果たせない具道心に燃える日本僧が参集。以来、衆生教化に努力し、道俗の尊嵩を受け、法灯連綿と受け継がれ、いよいよ栄えた。1876年(明治9年)以来、黄檗宗と称し、禅宗の教えを伝えている。

・・・隠元隆とは・・・

明代末、中国福建省の生まれ。46歳で中国の黄檗山萬福寺の住職となり、伽藍の復興に力を尽くし、弟子の教育に務めた中国仏教界の大物。先に来日し、興福寺(長崎)の住職となっていた逸然性融の再三の依頼で、63歳のときに弟子20余人と来日。崇福寺(博多)や普門寺(大阪)で教化に努める。3年で帰国する予定だったが、臨済宗妙心寺の龍渓宗潜らの奔走で日本にとどまる決意をし、四代将軍徳川家綱に謁見する。幕府の許可を得て京都宇治の地が下賜され、1661年(寛文元年)に隠元を開山とし、中国の黄檗山萬福寺の名をそのままつけて日本の黄檗山が開創された。伽藍がほぼ完成した住職3年目、隠元は木庵性瑫を二世として、松隠堂に隠棲する。後水尾天皇や将軍家、諸大名の帰依を受けて、最盛期には末寺3500を数えた。
1673年(同13年)に82歳で示寂。後水尾上皇より「大光普照国師」の号を特賜された。語録・説法・詩偈などを収録した「普照国師広録」30巻などがある。

・・・隠元の弟子・・・

隠元の弟子たちは、社会の文化と福祉に貢献した。版木6万枚にもなる一切経(黄檗版大蔵経)を彫った鉄眼、わが国ではじめて種痘を行い、また中国の工法により岩国(山口県)の錦帯橋の架橋を指導した独立、茶店を開き煎茶道をひろめた売茶翁=月海、下総(千葉県)で新田8万石を開拓した鉄牛などがいる。


・・・虚無僧も臨済の系統・・・

時代劇でおなじみの、深網笠をかぶり、尺八を吹いて全国を行脚する虚無僧は「普化宗」の僧。
もとは臨済宗の京都東福寺の心地覚心が1249年(建長元年)に入宋、中国唐代の尺八禅の普化を開祖とする普化宗を伝え、弟子の金先が下総(千葉県)に一月寺を建てて本山とした。
戦国時代、敗軍の武士が世を忍ぶため虚無僧となった。江戸時代は臨済宗の一派として扱われたが、1871年(明治4年)に廃止された。

と・・・こんな感じです。
次回は臨済宗の教えに注目したいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・4

2006-09-25 22:03:04 | 宗教
今回は日本の禅三宗について学習します。

禅は白凰時代に伝来し、平安時代は天台教学のひとつにもなっているが、独立した宗派として花開くのは鎌倉時代。栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が興り、ついで江戸時代、明僧隠元により黄檗宗が開かれた。

・・・禅が日本に伝えられたのは・・・

653年(白雉4年)に入唐し、法相宗を伝えた道昭が、玄奘三蔵のすすめで達磨の弟子慧満について禅を学び、帰国して飛鳥(奈良県)の元興寺に禅院を建て終日坐禅をしていたと「続日本紀」にある。
次に736年(天平8年)に来日した唐僧道璿が律宗・華厳宗とともに禅を伝えた。
その後、天台宗の開祖最澄や円仁らが入唐し、円(法華)・密・戒とともに禅を天台教学のひとつにとりいれたが、それらはまだ独立した一宗としてではなかった。
また能忍も禅を伝え、日本達磨宗と称した。

・・・栄西とは・・・

栄西は備中国(岡山県)吉備津宮の神官の子。11歳で天台教学を学び、14歳で比叡山にのぼった。28歳で宋に渡り、天台の経典を持ち帰ったが、宋で知った禅をきわめようと47歳で再入宋。
臨済宗黄竜派の虚庵懐敞に師事し、五年目に印可を得て帰国。博多にわが国最初の禅寺聖福寺を開くが、天台宗僧徒の激しい非難をあび、日本達磨宗の能忍とともに朝廷から禅停止の命を受ける。
栄西は「興禅護国論」を書いて「自分の禅は最澄が伝えたものと同じで、比叡山仏教を再興するものである」と主張し、一生を天台密教の僧として終えるが、一方で著書の最後に必ず禅は再興すると予言していた。そのため、日本臨済宗の開祖と仰がれる。ちなみに臨済宗では明庵栄西と読むのが正式だ。

ちょっと時間が無いので今日はここまで・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・3

2006-09-24 16:45:32 | 宗教
今回は簡単に臨済宗の僧侶の服装などについてです。

・・・僧の服装と持ち物の特徴・・・

参内・法要などの正装、平常寺内の礼拝用、略装などがある。
禅宗の服装で、もっとも特徴的なのは直綴といわれる衣だ。もとは中国宋時代の俗服で、それが法服化した。
そのため禅伝来当時、従来の平安朝の衣に対して「からころも」と呼ばれた。とくに袖の幅が広く丈も長い。腰継ぎがあり、裙が腰のところで接合されている。道具衣とも呼ばれる。また、袈裟をつける環も特徴的だ。
正装では、立帽子をかぶり、襪子という指の股のない足袋をつける。もとは防寒用。また、高僧が持つ払子は、もとは蝿や蚊を払うために長い毛や麻などをつけたもので、いまは権威づけとして用いられる。
略装は、改良服に手巾という組紐の帯をしめ、絡子(掛絡)をかけている。絡子というのは五条袈裟で、手巾は、衣をくくったり、たすきにしたり、行動を軽便にするために用いる。近代は上下に分かれた作務衣を着用することも多い。

・・・伽藍配置は・・・

密教寺院が山岳にたてられたのじ比べ、禅院は飛鳥時代と同じく平地に整然と配置された。
禅宗の七堂伽藍は山門(三門)、仏殿、法堂、僧堂、庫院(庫裏=台所)、東司(西浄=トイレ)、浴室からなる。台所やトイレ、浴室まで伽藍に含むのは、禅が日常生活すべてを修行の場と考えるからだ。ほかの宗派はこういう建物を伽藍には含めない。
また、その配置は人体にたとえられる。法堂は頭、仏殿は腹、山門は股、僧堂は右手、庫院は左手、東司は右足、浴室は左足をあらわす。

・・・お坊さんの呼び方・・・

ふつうは「和尚」という。そして公案を授けるような禅匠は「老師」と呼ばれる。
ちなみに天台宗や真言宗でも和尚と書くが、それぞれ「かしょう」「わじょう」と読む。また、高僧は
「阿闍梨」と呼ばれる。
日蓮宗や浄土宗は「上人」といい、浄土真宗は、僧侶同士では「和上」、檀家からは「御院さん」と呼ばれる。

・・・戒名の特徴・・・

本来、戒名は仏弟子になった証で、臨済宗では生前に公案を会得し、導師から授かるものであった。
院(殿)号は、古くは寺院を建立寄進した貴人につけられた尊称だが、いまは社会やお寺への貢献と信仰心のあつい人につけられる。ほかにも軒・庵・斎など住居の名が尊称として用いられる。道号は、性格や生前の徳、業績をあらわす。位号は性別・年齢、そして生前の徳により、禅定門・禅定尼・居士・大姉・信士・信女(成人)、童子・童女(15歳以下)、孩子・孩女(幼児)、嬰児・嬰女(乳児)などがつけられる。


と、さらっと服装について学習してみました。
次回は日本の禅三宗について学習します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・2

2006-09-24 00:01:19 | 宗教
今日は、臨済宗の特徴を学習します。

・・・臨済宗の本尊は・・・

臨済宗に限らず禅宗では特定の本尊を立てない。
これは「人間は生まれながらにして仏性をもち、本来みな清浄である」という、お釈迦様の悟りの体験を自己の内に自覚することを重視しているためだ。
そのため本尊にこだわりはなく、仏殿正面には、釈迦如来像、また、そのお寺の縁によって、大日如来、薬師如来、観音菩薩、文殊菩薩などをまつっているところもある。脇には禅宗の始祖達磨大師像、開山祖師の像などがまつられている。

・・・よりどころとする経典は・・・

ほかの宗派はお釈迦様の説いた教典をよりどころとしているが、禅宗では、お釈迦様の悟りの体験を重視するため、特定の経典へのこだわりはない。
それは文字や言葉では表現しきれないものであり、言葉や文字にとらわれるなという達磨大師の精神は「教外別伝」「不立文字」「直指人心」「見性成仏」という四言四句にあらわされ、禅の指標となっている。
ただ、古くからの習慣として、「大般若波羅蜜多経」「金剛般若経」「般若心経」「法華経」の観世音菩薩普門品(観音経)などの経典が読まれ、「白隠禅師坐禅和讃」や「宗門安心章」など、また公案に使われる祖師一代の語録「臨済録」「碧巖録」「六祖壇経」などもよく読まれる。

・・・禅問答とは・・・

修行僧は師家(指導者)から出された公案に取り組み、坐禅や作務のあいだも公案に苦しんだ結果、何らかの悟りを得て師家の部屋に行き、その内容を説明する(入室参禅)。公案自体がおよそ論理的ではない直感の塊だから、修行僧も師家も発言は論理的でなく激しい問答が繰り返され、ときには棒で打たれることもあった。それが「禅問答」である。
なぜ禅問答を行なうかといえば、禅は自己を見つめつくす体験であり、悟りの内容は言葉や文字では表現しづらい。修行の段階によって悟りは何回も訪れるが、そのとき師家は「それ、そこだ。それが悟りだ」と何かをつかみかけている修行僧に直に示してやることができる。

・・・本山は・・・

現在の臨済宗は十四派に分かれ、各派ごとに本山を有している。
(各派名称)       (派祖)      (本山) 
 建仁寺派        明庵栄西       建仁寺
 東福寺派        円爾弁円       東福寺
 南禅寺派        無関普門       南禅寺
 天龍寺派        夢窓疎石       天龍寺
 相国寺派        夢窓疎石       相国寺
 大徳寺派        宗峰妙超       大徳寺
 妙心寺派        関山慧玄       妙心寺
 建長寺派        蘭渓道隆       建長寺
 円覚寺派        無学祖元       円覚寺
 向嶽寺派        抜隊得勝       向嶽寺
 方広寺派        無文元選       方広寺
 永源寺派        寂室元光       永源寺
 国泰寺派        慈雲妙意       国泰寺
 佛通寺派        愚中周及       佛通寺

・・・なぜ、こんなに本山が多いのか・・・

もともと臨済宗では本山を定めず、中国の南宋の五山制度を模した形態が設けられていた。
1251年(建長三年)には鎌倉の建長寺を第一とする五山が、政権が京都に移った1334年(建武元年)には京都を中心に五山が定められたが、鎌倉派と京都派、武家禅と公家禅など寺格をめぐっての対立が激しくなったため、1386年(至徳三年)に鎌倉・京都の双方に五山制度が定められた。
京都五山は南禅寺を別格として、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺。鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺。さらに、それぞれの下に十刹が定められていた。
以来、変還をへて五山十刹制度は消えたが、現在の十四派本山となる。


今回はここまで・・・。
次回は僧侶の服装なども学習します・。
ところで・・・相方の家は臨済宗ではなく、曹洞宗でした・・・。
何だよ~・・・。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨済宗について・・・。

2006-09-22 19:45:41 | 宗教
日蓮宗の後は真逆のような浄土真宗をやる予定だったのですが、私の勝手な好奇心で、今度は臨済宗を学習します。
臨済宗の開祖「栄西禅師」の歴史をざっと振り返ってみましょう・・・。

・・・栄西の人生・・・

1141年(永治元年)

4月20日(25日の説もある)、備中国吉備津宮(岡山市)の神官の子として生まれる。父は天台宗の園城寺に学んだことがあり、仏教にも通じていた。

1148年(久安四年)

幼いときから父に従って仏教の手ほどきを受けており、八歳にして経典「阿毘達磨倶舎論」を読みはじめる。当時から聡明さを発揮していたといわれる。
この年の正月、源頼朝が生まれた。

1151年(仁平元年)

父の友人である安養寺(岡山県)の静心に師事し、日本仏教の母体となった天台密教を本格的に学びはじめる。しかし、学び進めるちにさらに深く天台密教を深めたいと思うようになった。

1154年(久寿元年)

静心に願いでて比叡山延暦寺にのぼる。具足戒を受け、剃髪して出家者となる。
当時の比叡山は日本天台宗の総本山でありながら、仏教の総合大学としての機能も持っていた。

1156年(保元元年)

保元の乱が起き、崇徳上皇が讃岐国(愛媛県)に流される。
栄西十六歳。

1159年(平治元年)

平治の乱が起き、勝利した平清盛は絶大なる権力を握る。
栄西十九歳。

1161年(応保元年)

比叡山の堕落に絶望し、それを改革するためには宋(中国)に渡り、天台宗の総本山である天台山で修行をしたいと願うようになる。翌年、郷里備中国に帰郷する。

1167年(仁安二年)

12月、父母に宋留学の許可を得て、ひとまずは鎮西(九州地方)に渡る。
当時は遣唐使のような制度は廃止されており、中国に行くには商船が来るのを待つしか手立てがなかった。

1168年(仁安三年)

4月、入宋を果たす。天台山にのぼるが、すでに禅宗の寺院に変わっていた。
念願の天台の教えは学べなかったものの宋で流行していた南宋禅を知ったことを成果とし、5ヵ月後帰国する。

1169年(嘉応元年)

帰国後、九州を中心に高僧として布教活動を展開。しかし、このころから仏教の正しい教えを学びたいと願い、今度は宋を経て天竺(インド)へ行きたいと強く希望するようになる。

1185年(文治元年)

平家、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れる。
栄西45歳。

1187年(文治三年)

再び宋に渡るも、中国政府から交通不可能との理由で許可がおりず、天竺行きは断念。天台山などで5年間、虚案懐敞のもと臨済宗黄竜派の修行を積む。

1191年(建久二年)

7月、宋にて虚案懐敞より臨済宗としての嗣法の印可を授けられ、帰国する。
翌月、筑前(福岡県)ではじめての禅を教えを説く。その後、九州を中心に精力的に禅をひろめた。

1192年(建久三年)

源頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた。
栄西52歳。

1194年(建久五年)

九州で地歩を固めた栄西は、京で禅宗開教を目指す。
しかし、九州での評判を聞いた比叡山の僧らがこれをねたみ、朝廷に訴える。これを受けた朝廷は、栄西に禅停止の命を下した。

1195年(建久六年)

博多に日本最初の禅寺聖福寺を建立。その後、京都にのぼって禅による天台宗の再興を試みた。しかし、比叡山から猛反発にあい、迫害を受けることとなった。

1198年(建久九年)

比叡山の迫害に対抗するため、「興禅護国論」を起こす。天台宗の開祖である最澄も比叡山で禅を取り入れていたと反論。また、禅を興すことが国家を護持することと主張した。

1202年(建仁二年)

源頼家の外護を受け京都に建仁寺を建立するが、寺内に真言宗、止観院を設け、真言・天台・禅の三宗をおき、比叡山の末寺として出発した。ここにはじめて禅宗は公認される。

1207年(承元元年)

6月、東大寺に筆・墨を献じる。7月、病気になった後鳥羽院皇女の戒師を任ぜられる。このころよりだんだん禅の地位が確固たるものとなり、京都での活動も活発化する。

1211年(建暦元年)

このころ、二度目の宋留学の際に持ち帰った茶が全国に広まり、茶祖と呼ばれるようになっていた。そして、茶の効能をまとめた「喫茶養生記」を著し、源実朝に献上する。

1213年(建保元年)

4月、法勝寺(京都)で九重塔供養。5月、権僧正い任命。6月、鎌倉に参着。このように京都と鎌倉を精力的に往復し、布教活動をつづけることで、禅の確立を目指した。

1215年(建保三年)

6月、鎌倉の寿福寺で入滅する。(京都で逝去したという説もある)前年の大倉大慈寺(鎌倉・現在廃寺)供養の導師をつとめ、同寺の舎利会を主催したのが最後の大きな仕事だった。



と、いう感じです・・・。
明日から臨済宗の色々を学習していきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする