とどちゃんの縁側でひとり言・・・。

日々の生活の中で見たこと感じたことを記録していきます。

99人斬りのアングリマーラ

2006-11-18 19:49:01 | 宗教
ちょっとお釈迦さまの事がしりたくて色々読み漁っている私ですが、数あるエピソードの中でもアングリマーラのお話はお釈迦様の素晴らしさが判るお話でもあるので、ちょっとここでも紹介したいと思います。

アングリマーラはコーサラ国のバラモン大臣の子で、学生時代から群を抜いて優秀な青年でした。
バラモンの老いた師に付いて、長年学んでいたのですが、師の留守中に、師の若い妻に誘惑されたので、手厳しく拒絶して逃げ帰ります。
屈辱を受けたバラモンの妻は自分で衣類を引き裂き、爪で身体に傷をつけ、夫にアングリマーラに犯されかかってこんな目に遭った。それでも辛うじて自分は貞操を守ったと泣いて訴えました。
老いたバラモンは嫉妬に狂い、アングリマーラに復讐しようと考えを廻らせ、ある日、さり気なくアングリマーラを呼び出し、こう言うのです。
「もはやお前には、すべての学問も修行の方法も教え尽くした。最後に果たさなければならない修行が一つ残っている。それは百人の人間を殺して、指を一本ずつ証拠に切り取り、百の指をつないで首飾りをつくれば、お前の行は完成するのだ」
そう言って、その為の刀剣を渡しました。
アングリマーラは驚き怖れたものの、信じきっていた師の命令だからと、それから毎晩町へ出て、辻斬りをはじめるのです。
町の人々は突如現れた殺人鬼の凶行に怯え、昼間も人出がなくなり、その為アングリマーラの殺人は、次第に難しくなっていきました。
ようやく99人を殺し、あと一人で命じられた行が完成するというのに、百人目が通らないのでアングリマーラは焦っていました。
それを聞いたお釈迦さまは、弟子たちが必死に止めるのも聞かず、一人で灯も消えはてた町へ出かけます。
勿論、その背後から弟子が見えかくれに尾いていきました。
お釈迦さまが一人静かに歩いているのを見つけた覆面の殺人鬼が、物陰から躍り出て叫びます。
「止まれ」
お釈迦さまは静かな威厳のある声で言われました。
「私は止まっている。殺人鬼よ、お前こそ止まれ」
その声と態度に、アングリマーラはひるみましたが、虚勢を張って問いかえしました。
「お前は今、歩いているのに自分は止まっているといい、私は止まっているのに、動いているというのか」
お釈迦さまはすかさず。
「私は一切の生類に害心を持っていない。だから心は静止している。お前は生類に対して不殺生の自制心を失っているから、心が乱れ動揺しているのだ。動いているのはお前だ。殺人鬼よ、正気に返れ」
と烈しい声で叱咤された。その威厳と正しい叱責に打たれ、その場で正気を取り戻したアングリマーラは刀を投げ捨て、お釈迦さまの前にひれ伏しました。
お釈迦さまはアングリマーラをその場から祇園精舎に連れ帰って、彼の望む通り出家させてしまいます。
さすがに精舎の中でもこの事件には騒然となりました。
お釈迦さまは周りの声を無視して、アングリマーラを他の弟子と同様に扱いました。
托鉢に出ては、町の人々に包囲され、罵声を浴びせられ、石や棒で打ち据えられ、血みどろになって帰ってくるアングリマーラに
「ただ耐えよ」
と言われるお釈迦さまの言葉を命綱に、アングリマーラは毎日を耐えに耐えます。
国王も軍隊を引きつれアングリマーラの召し捕りに押し寄せますが、お釈迦さまは、一度自分の弟子になった者は、国王の命と言えど、引き渡す事は出来ないと拒み通しました。
国王もお釈迦さまに帰依してましたので、逆らう事もできずそのまま引き上げていきました。
「すべては流転する。同じ状態でつづくものはこの世にはない。それを無常という。人も、時も、事件も、噂も・・・」
お釈迦さまの口癖通り、あれほど非難と嫌悪の的になったアングリマーラを、教団ではもう誰もみな殺人鬼だったことなど忘れきったようになっていく・・・。
また、当時を知らない若い修行僧たちが、旧い僧の何倍か多く増えていきました。
時が流れ、お釈迦さまも亡くなる日が近づいてきました・・・。
お釈迦さまに長年侍者としてつかえているアーナンダが、ある日、アングリマーラにたずねます・・・。
「お母様はお元気か?」
アングリマーラは答えました・・・。
「いや、あの事件の後、私の様な極悪の子を産んだという理由で、父に追われ、実家に戻る途中の森の中で縊れて死んだと聞いている。父もその後、大臣の職を辞し、行方をくらましてしまった。自分の無智の引き起こした罪の深さは、年月を経ても少しも薄らぎはしない。これは今まで誰にも話したことはないが、あの夜、世尊の歩いて来られる前に、もう一人の人間が現れたのだ。獲物に餓えていた狂人の私はたちまちその者を捕らえた。剣を胸に刺しつけた時、
「早く殺しなさい」
と女の声がした。母だった。母が絶叫した。
「百人目に母を殺して、お前も死んでおくれ」
その時、世尊が向こうから歩いて来られた。母に当身をくらわせ、失神させ、私は世尊を襲おうとした。世尊に救われた一部始終を、気絶していた母は知らない。母が自殺したのは、私の殺した人々へのお詫びだと思う。
私の殺した九十九人の人々の家族の悲歎と不幸を私は忘れたことがない。アーナンダ、この世で一番悪い人間の罪は無智だ。戒律の一番重いものは、不殺生だ。殺してはならぬ、殺させてはならぬ、と世尊が説かれる度、自分ひとりに向けてのお説教だと、いつも全身が硬直してしまう。私にはこの世に生きて、自分の拭いきれない罪に後悔し続ける生が、地獄のどんな責苦とやらより辛い。だからこそ、自分には永遠に死ぬ事が許されないような気さえしている」

・・・ここまでのくだりを読んで絶句してしまったのは私だけでしょうか・・・。
どの様に感じるかは個人の自由です。
ただ、私は何度も何度もこの話を読み返してしまうのです・・・。
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仏陀の証・・・。

2006-10-24 22:57:44 | 宗教
ちょっと、今「曹洞宗の話」が途中で休憩に入ってますが、実は、仏陀の生涯をおさらいしております・・・。
ちょっとここで雑学ですが、仏陀には32相という、32の独特のしるしがあります。
それは・・・。
1.安定のよい足(足下安平立相)
2.両足の裏に車輪がある(足下二輪相)
3.広いかかと(足跟広平相)
4.長い指(長指相)
5.柔軟繊細な手足(手足柔軟相)
6.網目に覆われた手足(手足指縵網相)
7.くるぶしの高い足
8.羚羊の脛
9.足ったとき、身を屈めなくても両手が膝につき、膝をこする。
10.局所が鞘状の膜の中に埋まった覆いによって隠れている。
11・12.金色の顔色ときめ細やかな肌。
13.一つの毛穴に1本の体毛
14.空中に突き出した体毛
15.ブラフマンの真っすぐな四肢
16.両手・両足・両肩・うなじにある7つのふくらみ
17.獅子のような上半身
18.ふくらんだ両脇の下
19.バンヤン樹の丸み
20.丸く盛り上がった両肩
21.味覚のこの上ない繊細さ
22.獅子の顎
23.40本の歯
24.ひとしくそろった歯
25.すき間のない歯
26.真っ白な歯
27.大きな舌
28.ブラフマンの声
29・30.真っ黒い目とゴパクマの雌牛の腱
31.眉間の白い毛
32.ふくらみのある頭

とまあ・・・理想的な人間の特徴とでもいいましょうか・・・?
一番は、やはり、両手両足の裏にあると言われる車輪の模様でしょうか?
あとは、ふくらみのある頭・・・。
余談ですが・・・。
実は・・・あるんですよ・・・。
私の足の裏に・・・車輪が・・・。
・・・・ん?・・・
あっ!これタコだった!!
ありゃりゃりゃりゃ・・・。
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曹洞宗について・・・6

2006-10-17 23:47:19 | 宗教
本日は、曹洞宗の両祖の一人、瑩山の人生を振り返ります。

瑩山の生涯は、鎌倉幕府が隆盛し、衰えていく時期と一致している。得度式を上げて一人前の僧になる前後に二度の元寇があり、元を撃退した幕府の支配力は全国的に強化された。瑩山も能登(石川県)を中心に教線を拡大し、多くの逸材を育成し、後世の曹洞宗隆盛の基礎を築く。北条氏の専制で幕府が衰退し、後醍醐天皇が討幕に動きはじめるころ、瑩山の生涯も終った。

1268年(文永5年)

越前(福井県)多祢の観音堂に、熱心な観音信者だった母の懐観大姉がお参りに行く途中、その敷地内で出産したと伝えられる。父は了閑上座。1264年や1266年の誕生説もある。

1275年(建冶元年)8歳

母方の祖母明智に連れられ、越前(福井県)永平寺三世徹通義介のもとで出家。明智は道元が宋から帰国直後に入門した女性。義介は「三代相論」により翌年住職を退任し、二世懐奘が再住。

1280年(弘安3年)13歳

9歳から懐奘の膝下で修行し、得度式を上げて一人前の僧となった。二年前に文永の役、得度の翌年は弘安の役。道元や義介が学んだ南宋は元に滅ぼされ、北陸の地も元寇で揺れた。

1286年(弘安9年)19歳

17歳で「師翁」懐奘が遷化。義介が再住して「三代相論」が再燃。永平寺を出て、道元の高弟だった宝慶寺住職の寂円に参じた。寂円の厳しい指導のもとで、不退転の菩提心を発する。

1287年(弘安10年)20歳ころ

宝慶寺から諸国行脚に出た年を不明だが、後世の史伝では二十歳頃、比叡山に学び、東福寺の白雲慧暁から天台密教を興国寺の心地覚心から真言密教を学んだと推測される。

1289年(正応2年)22歳

場所は加賀(石川県)大乗寺と推測される。「法華経」法師功徳品を読み、仏法の核心にふれる。「聞声悟道」を得、25歳で「観音の如く大悲闡提の功誓願を発す」。どのような困難も克服し、衆生を救うためには地獄に堕ちてもよいと非常な勇気を要する決意をした。

1295年(永仁3年)28歳

阿波(徳島県)の郡司の招きで城万(満)寺住職となる。翌年、永平寺を訪れ、四世義演の方丈(居室)で仏祖正伝菩薩戒作法を授られた。31歳までのあいだに、城万寺で有縁の者七十余人に戒を授けた。

1299年(正安元年)32歳

城万寺から大乗寺に戻った翌年、義介の法嗣となり、大悟のきっかけは「平常心是道」(日常そのものが、真実の仏道のあり方である)だった。

1302年(乾元元年)35歳

義介の後を継いで大乗寺住職となる。自分の禅が師資相乗の正伝であることを確認するため、37歳あら修行僧に「伝光録」を議義。釈迦から中国をへて道元・懐奘へいたる、歴代祖師の業績を53回にわたり説いた。1300年(正安2年)の説もある。

1313年(正和2年)46歳

師の義介が遷化して二年後、大乗寺を高弟の明峰素哲に譲り、その二年後、祖忍尼と夫の滋野信直の寄進を受けて能登(石川県)に永光寺を開いた。正式に入山したのは50歳のとき。

1323年(元亨3年)56歳

永光寺山内に曹洞禅の嗣承をあらわす塔所を建立した。如浄の語録、道元の遺骨、懐奘の血経、義介から瑩山へ伝えられた日本達磨宗の嗣書を収め、道元禅の嗣書と伝衣のみを残した。

1324年(正中元年)

(正中の変)
即位した後醍醐天皇は天皇親政とし、日野資朝らとはかって鎌倉幕府を倒そうとしたが、失敗した。

1324年(正中元年)57歳

永光寺の法堂が完成し、總持寺の伽藍造営進んで僧堂が開かれた。總持寺住職を高弟の峨山韶碩に譲って二世とし、自らは永光寺に移る。このころ「瑩山和尚清規」を整備したと伝えられる。

1325年(正中2年)58歳

永光寺住職を高弟の明峰素哲に譲り、八月十五日の夜半、永光寺で示寂。62歳の説もある。遺偈は「限りなく霊苗の種は熟脱す、法堂上に鍬を挿む人を見る」。農民生活に根ざす仏法だった。
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曹洞宗について・・・5

2006-10-11 21:54:25 | 宗教
今回は、曹洞宗の「修証義」にみる教えを学習していきます。

「修証義」とは・・・

正しくは「曹洞教会修証義」という。修は修行、証は悟り、義は意義をあらわす。在家信者と僧侶のための「曹洞宗教化の標準書」。宗門の教義を示したテキストということである。1890年(明治23年)に制定され、翌年一月から全宗門で公布使用された。
明治時代初期はキリスト教の活躍がめざましく、仏教各派も信徒教化に乗りだした。はじめ、曹洞扶宗会の大内青巒によって「洞上在家修証義」が在家信者のための手引き書として編集された。これは、現在の「修証義」よりやや長いもので、道元の「正法眼蔵」の九十五巻のなかから抜き集めた文章を三十二節に分けてあった。ただし、道元の主張する「只管打坐」を一般の信者に課するのは無理と判断して、授(受)戒(戒を授ける・受ける)を中心に据えた教化布教の手引き書となった。
曹洞扶宗会では、在家信者がこれを仏前で読経することを行事化しようと考え、教団が公式採用することを建議してきた。時の大本山永平寺貫主滝谷琢宗と大本山總持寺貫主畔上楳仙が徹底的に内容の検討を行い、全面的改訂によってできあがったのが、現在の「修証義」。在家だけでなく僧侶も対象に含めた。五章、三十一節、三七〇四文字でつくられている。いまや曹洞宗の檀信徒にもっとも親しまれ、法要・葬儀・施食会などで読経される。


・・・第一章   総序・・・

やがて死んでいく私たちはいま人間として生を受け、仏法と出会えた。これは素晴らしいことだ。人生ははかないが、かけがえのない生命を充実させなければならない。人の行いには善悪の報いがある。悪い行いをするものは堕落する。現在の行為は過去にその原因があり、未来に影響する。自らの悪い行いによって長い苦しみを受けるのは、まことに悔しいことではないか。


・・・第二章   懺悔滅罪・・・

仏は祖師たちは、私たちのために広大な慈悲の門を開けて待っていてくれる。すべての衆生を悟りに導くためだ。自らの行いの善悪の報いは必ずあるが、たとえ重い悪業を負っていたとしても、仏に懺悔すれば軽くなり、清浄な身にしてくれる。だから仏に「私を憐れんで、悪業の積み重ねから脱出させ、仏道修行にさしつかえのないようにしてください」と懺悔努力しよう。


・・・第三章   受戒入位・・・

懺悔がすんだら、仏法僧の三宝に帰依し、迷信・邪教に頼ってはならない。次に三つの清浄な生活の戒と十の大切な戒を受けなければならない。
釈尊はいっている。「仏戒を受け修行を怠らなければ、諸仏の位に入り、諸仏の子となる」と。人々は、はかりしれぬ仏の力に助けられて悟りを開くのだ。


・・・第四章   発願利生・・・

菩提心を起こすという意味は、自分より先に、他の人々を悟りの彼岸へ渡してあげようと発願し努力する利他の心を起こすこと。この心を起こせば、七歳の少女であっても命ある者の指導者だ。衆生に幸せを与えるためには、四つの知恵がある。①貪らず施すこと②優しい言葉で接すること③利多行に専心すること④衆生の立場に立って教化を実践すること、である。


・・・第五章   行持報恩・・・

私たちには、このように仏道を求める機会が与えられている。仏の教えにめぐり会えたからである。釈尊の歴史と祖師たちが身をもって教えを伝えてきたからこそ、私たちはめぐりあえた。
その恩に感謝しないということがあろうか。私たちが仏や祖師たちの恩に報いる方法は、毎日、仏の行いを理想として修行生活を送ることだ。釈尊と通じる即心是仏の姿・心で生きていくことだ。

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曹洞宗について・・・4

2006-10-10 21:54:27 | 宗教
さて、前回は道元の生い立ちを学習しましたので、ここで、道元の禅について学習したいと思います。


坐禅に何の意義も目的も持たず、全身全霊で坐る「只管打坐」。一切の束縛から脱する境地が心身脱落。坐禅修行の姿そのものが悟り・・・即心是仏だ。


・・・宗門の正伝にいはく、
この単伝正直の仏法は、
最上のなかに最上なり
参見知識のはじめより、
さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、
祇管にた打坐して、
心身脱落することを得よ。

威儀即仏法
作法是れ宗旨        「正法眼蔵」弁道話


・・・坐禅こそ正法である・・・

道元が伝えようとしたのは経典でも仏像でもない。厳しい修行の末、最後に学びとった釈尊正伝の仏法である。
その正法の根本にあるのが坐禅。坐禅は釈尊の教え・体験そのもの。
釈尊の教えを信じ実践すれば、貴賤・賢愚・男女の別なく、だれにでもきわめられるとした。
焼香・礼拝・念仏・懺法・看経は不必要、坐禅に打ち込むだけで釈尊正伝の仏法を学びとることができる。
悟りを求めて坐禅するのではない。ただ一心に坐る。
「身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし、心身脱落の結跏趺坐すべし」と「正法眼蔵」にある。
身体で坐り、心で坐り、ついには身体の痛みも心のなかの妄想で抜け落ちた「心身脱落」の状態で坐る。それが「只管打坐」だ。
身体は正身端坐、口は一字に結び、心は無心になって、坐っている(心のこだわりも消え失せている)。
「ただ是れ安楽の法門なり」(普勧坐禅儀)。
禅修業そのものが仏の行。一寸坐れば一寸の仏。身体で学ぶ「身学道」だともいっている。

・・・修行と悟りは一つ・・・

道元は「弁道話」で「修証一等」といい、「本証妙修」という。
修証一等とは、修行と本証(本来の悟り)は一つのものなのだという意味。悟りと修行を二つのものと考えてはいけない。悟りを目的、修行を手段と考えるのは大きな間違いだ。
こだわりを捨て、身も心も一切の束縛から脱して全身全霊で坐禅に打ちこむ「只管打坐」は、修行と悟りが一体になった人間本来の清浄な姿、仏そのものの姿にもたとえられる。
修行は坐禅に限らない。農作業・道普請などの作務、食事や睡眠、日常生活すべてが修行だ。「威儀即仏法 作法是れ宗旨」は、洗面から食事の仕方など細かに修行の仕方を説く「生活禅」を表現した言葉だが、食器を洗う作業に修業を徹底する向上心が働くかどうか。それが修行のカギだ。
本証妙修とは、仏としての可能性を持つ人間が、修行をゆるめず、一心に仏道に打ちこむことで、仏のはからいの中にある自己を自覚すること。自己という束縛から解き放たれたところに仏性が現れる。
「即心是仏」である。
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曹洞宗について・・・3

2006-10-08 14:10:38 | 宗教
今日は、曹洞宗の両祖の一人である「道元」の人生にスポットを当ててみましょう。

鎌倉という新しい武家の世が開かれ、朝廷とのあいだに激しい権力争いが行なわれた。1221年(承久三年)、承久の乱で朝廷が敗れ去ったのち、道元は宋から新しい禅をもたらした。名利や権勢から離れ、坐禅によって民衆を救おうと力を尽くした。「末法の世」を認めず、渾身、修行につとめれば、それが仏法そのものだとした。新しい価値社会に、新鮮な大陸の禅は急速に浸透していく・・・。


1200年(正治2年)

父は後鳥羽院に仕える内大臣久我道親、母は前摂政関白松殿基房の三女伊子といわれる。最近の研究では、道親の二男道具が父との説もある。いずれにせよ村上源氏直系、名門の子だった。

1203年(建仁3年)

二代将軍頼家を修善寺に幽閉した北条時政は幕府の執権となり、翌年、頼家を謀殺した。道元四歳。

1212年(建暦2年)13歳

幼くして父母を亡くした道元は、母方の叔父の天台僧良顕(良観)を訪ね、許しを得て比叡山横川で出家。翌年、天台座主公円のもとで剃髪得度。菩薩戒を受けて「仏法房道元」と名乗った。

1214年(建保2年)15歳

天台宗の教えに疑問をもち、三井寺の光胤のすすめで、栄西が宋から伝えた臨済宗を建仁寺で学ぶ。下山の年を建保五年とする説もあり、建保三年に示寂した栄西との相見は定かではない。

1291年(承久元年)

将軍実朝の暗殺
鎌倉鶴岡八幡宮の階段を下ってきた実朝を、甥の公暁が刺殺。源氏将軍家は断絶した。道元20歳

1221年(承久3年)

承久の乱
朝廷の後鳥羽上皇は西国の武士・僧兵らを集め、鎌倉幕府を倒そうとしたが、敗北した。道元22歳

1223年(貞応2年)24歳

明全らと宋へ渡り、天童山景徳寺の無際了派について臨済宗大慧派の禅を学ぶ。その後、杭州の径山、台州の万年寺などを遍歴。禅宗各派の嗣書を研究したが、正師には出会えない。

1225年(嘉禄元年)26歳

天童山景徳寺住職となった如浄に入門する。名利・権勢を避け、古風な曹洞禅の修業を続ける如浄は理想の正師だった。二年後、身心脱落の境地を得て嗣書さずかり帰国。

1227年(嘉禄3年)28歳

帰国すると建仁寺に仮寓して「普勧坐禅儀」著す。自分が伝える坐禅は釈尊正伝の真実の仏法だとし、出家・在家・老若男女を問わず、すべての人にすすめた道元禅の独立宣言書だった。

1230年(寛喜2年)31歳

天台宗・真言宗との兼修を否定し、「只管打坐」の専修禅を強調。比叡山の圧力が強まり深草へ避難する。布教活動が活発化し、三年後に興聖寺を創建。懐奘ら達磨宗系の入門が続いた。

1233年(天福元年)34歳

興聖寺創建と機を同じくして、大著「正法眼蔵」に着手。「現成公按」「礼拝得髄」「嗣書」「仏性」「行持」の巻など、13年間の深草時代に半分近くの42巻が書かれた。

1243年(寛元元年)44歳

積極的な布教が進むと天台宗の圧迫が再び強まる。また興聖寺のすぐ目の前に臨済宗東福寺が開かれた。京での布教を断念し、志比荘の地頭波多野義重のすすめで越前(福井県)へ移る。

1244年(寛元2年)45歳

越前の禅師峰寺・吉峰寺などで精力的に説法。九ヶ月間で「正法眼蔵」の三分の一「仏道」「諸法実相」の巻など31巻を書いた。布教のため妥協は一切なく、純粋な出家主義を説いた。

1246年(寛元4年)47歳

大仏寺を建て、新しい修行方法を確立したのち、永平寺と改名した。寺名は仏教が中国にはじめて伝来した「後漢の永平十一年」からとり、道元禅が正法の仏法だと強調している。

1247年(宝治元年)48歳

執権北条時頼の懇請により非常な決意で鎌倉へ行く。菩薩戒を授け禅の教化につおめたが、武士たちの教化には限界があることを感じ、時頼の寄進も断って、翌年越前に帰った。

1253年(建長5年)54歳

厳しい修行で腫瘍が悪化したと伝えられ、療養先の俗弟子覚念の邸で短い一生を終えた。遺偈は「渾身覓なく(渾身の力で生きた。もはや求めるものはない)活きながら黄泉に落つ」
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曹洞宗について・・・2

2006-10-06 22:17:00 | 宗教
今日はちょっと休憩タイム・・・。
江戸時代の個性的な禅僧について簡単にお話しましょう。

風外慧薫(ふうがいえくん)

「出家するより、むずかしいのは寺を出ることだ」
岩穴に住み、食器代わりは「髑髏」。どこまでもついていくといった弟子も、さすがに真似できなかった。


鈴木正三(すずきしょうさん)

「初心の者は仁王禅をやるにかぎる」
手足を踏ん張って仁王の気迫にあやからなければ、煩悩との戦いに勝ち目はないぞと弟子を励ました。

桃水雲渓(とうすいうんけい)

「せまけれど、宿をかすぞよ阿弥陀どの、後生頼むとおぼしめすなよ」の賛には、何ものにもとらわれない禅の心が感じられる。

大愚良寛(だいぐりょうかん)

詩や和歌を詠み、子供たちと遊ぶ毎日。日が暮れて、みんな帰ってしまったのも知らず、ずっとかくれんぼを続けていた

風外本高(ふうがいほんこう)

書画で知られる風外。大名が礼をつくして招いたら「アカンベー」
「大寺肉山(収入の多い寺)は野狐の巣窟だ」といいきった。

物外不遷(もつがいふせん)

古道具屋の碁盤を買いたいが持ち合わせがない。手付けを置けとうるさい亭主に「これがわしの手付けじゃ」と碁盤をひっくり返し、げんこつを食らわした。こぶしの形に碁盤がへこんでいたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼らのように、学問研究に励む教団の主流とは別に、飄々と生き、民衆に愛された僧たちがいた。
仁王禅を推奨した鈴木正三はもと徳川の旗本、病の乞食を看病して歩いた乞食桃水(雲渓)、住職を捨て岩穴に住み「穴風外」といわれた風外慧薫、書画に優れ、その独特の署名の書体から「凧風外」といわれた風外本高、自然をこよなく愛した大愚良寛、「げんこつ和尚」と呼ばれた物外不遷、彼らは大寺の住職になることよりも、道元が強調した出家道の精神を身をもって実践した。
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曹洞宗について・・・

2006-10-05 17:33:43 | 宗教
さて、宗教シリーズ、今回は曹洞宗についてです。
前回の臨済宗に続いて禅つながりです・・・。
まずは、特徴から・・・。

・・・曹洞宗の宗祖は・・・

曹洞宗では、他宗で宗祖にあたる祖師を「両祖」といって二人たてている。一人は、高祖の承陽大師・道元、もう一人は、太祖の常済大師・瑩山紹瑾。高祖は父、太祖は母にたとえられている。高祖道元は、入宋して天童山の如浄に師事し、印可を得て帰国すると、当時、建仁寺(京都市)で行なわれていた天台・真言との兼修禅を否定して、ひたすら坐禅にうちこむ純粋禅を「普勧坐禅儀」「正法眼蔵」などによってとなえ、禅の専修道場として興聖寺(京都府)や永平寺(福井県)を建て、厳しく教えた。そのため「法統の(宗旨)の祖」といわれる。
太祖瑩山は、道元から四代目にあたるが、能登(石川県)の永光寺や總持寺を中心に教団としての曹洞宗を確立し、「伝光録」「瑩山清規」などによって下級武士や商人、農民の教化につとめ、密教や修験道、民間信仰を吸収しながら飛躍的に教勢を伸ばして一万五千ヶ寺といわれる今日の教団の礎を築いた。そのため「地統(教団)の祖」といわれる。

・・・宗名の由来・・・

道元は曹洞宗という宗派名をたてることも禅宗という呼称も嫌った。自分は入宋して如浄から直接伝授されたものは「釈尊正伝の仏法」で、一宗派の教えなどではないとの主張からだ。当時、中国禅宗は雲門・法眼・潙仰・臨済・曹洞の各宗が「五家」と呼ばれ、如浄も曹洞宗の禅師だったが、道元は名利や権勢を嫌う傑出した如禅に、宗派を超えた教えの真髄を見ていた。
曹洞宗という宗名を用いるようになったのは、四代目の瑩山あたりからである。これは全国的に寺院が建立され、教団が急速に庶民大衆のあいだに拡大されるに従い、他宗と区別する必要があったからだ。
「曹洞」の二文字は、どちらも中国の禅者からとられている。
「曹」は中国禅宗の六祖曹渓山大鑑慧能の頭文字。五家はすべて慧能の門下より生まれている。「洞」は中国曹洞宗の祖師、洞山良价の頭文字。両者の宗風を敬慕した道元の宗旨を表している。

・・・本尊は・・・

釈迦牟尼仏をまつることが多い。これは教えの根源を、菩提樹の下で悟りを開いたお釈迦さまの瞑想体験そのものに求めるため。
また、両祖である道元と瑩山をお釈迦さまとともに尊崇し「一仏両祖」として尊んでいる。
しかし、他の禅宗同様、本尊にこだわりはない。永平寺の仏殿には、三世仏として釈迦牟尼仏と弥勒仏・阿弥陀仏がまつられ、總持寺の仏殿には、釈迦牟尼仏と迦葉尊者・阿難尊者がまつられている。大乗寺(石川県)では釈迦牟尼と文殊・普賢の両菩薩、永光寺では釈迦牟尼仏と観音・虚空蔵の両菩薩である。
曹洞宗が全国にひろまり、多くの既成仏教の寺院が曹洞宗に改宗したとき、すでにその寺でまつられていた諸仏はそのまま本尊とし、諸神もそのまままつられたのである。

・・・経典は・・・

曹洞宗の宗典は「修証義」である。道元の著書「正法眼蔵」から抜粋して明治時代につくられた。仏事法要などでもっとも多く読誦される。また「法華経」「大悲心陀羅尼」「般若心経」などが日常よく読まれる。
「法華経」は各宗派で尊崇される「諸経の王」だが、道元も比叡山での修行中「法華経」を学び、「正法眼蔵」のなかでも随所に引用して自らの宗旨を述べている。「大悲心陀羅尼」は「大悲咒」ともいわれ、一切衆生を救い、病を治し、悪鬼を除く功徳がある。「般若心経」は唐の時代から用いられ「すべては空なり」と悟るまでの要旨が二六二文字のなかに示されている。
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臨済宗について・・・11

2006-10-05 09:32:27 | 宗教
今回は、前回の「公案語録」の続きです。

・・・庭前柏樹子・・・

僧、趙州和尚に問う。
「如何なるか是れ祖師西来意」。
州至く、
「庭前柏樹子」。

ある僧が趙州にたずねた。「始祖達磨がわが国にやって来た理由は何でしょうか」。趙州は答えた。「庭前の柏樹だ」。問答はこのあと、こう続く。「老師、境(たとえ。客観物)で示さないでください」。「私は、境で示したりはしない」。「達磨はなぜ、わが国にやって来たのですか」。「庭前の柏樹だ」。なんとなくユーモラスで、趙州の人柄があらわれたような公案である。しかし、公案としては手がかりがつかみにくい。秋月龍は質問の部分を多少変えて「達磨の禅の極意は何ですか」、「庭前の柏樹だ」としている。このほうが、公案としてとらえやすい。
それにしても、達磨が中国に伝えたかった禅の極意が「柏樹」とは、いったい何のことだろうか。修行僧はここでも大疑団を発し、「柏樹」と格闘しなければならない。ヒントはやはり、自己と対象との一体化だ。達磨禅の伝灯は、師資相承(師から弟子へ)により趙州にも伝えられており、趙州は達磨そのものともいえる。そして、もうひとつ。お釈迦さまが深い禅定に入り、暁の明星を見て「心性清浄」を悟ったとき、「あの明星は私だ」と叫んだではないか。
自己と対象が一体となった「物我一如」の境地を、そう表現したのだ。
何物にもこだわらない、真空無相の自己は、どのような相にも変化できる。趙州が僧に質問されたとき、目の前に牛がいれば「牛だ」と答えたであろう。

・・・南泉斬猫・・・

南泉和尚、東西両堂の猫児を争うに因って、
泉、及ち提起して云く、
「大衆、道い得れば、便ち救わん。道い得ずんば、便ち斬却せん」。
衆、対うるなし。泉、遂に之れを斬る。
晩に趙州、外より帰る。泉、州に前話を挙示す。
州、及ち履うぃ脱いで、頭上に安じて出ず。
泉、云く、「子若しあらば、及ち猫児を救い得たらんに」。

唐代の禅僧南泉は、馬祖同一門下の三大士といわれた。その南泉の禅院で、東西両堂の修行僧たちが一匹の猫をめぐって争っていた。南泉は猫をつかみあげていった。「たったいま、みなが道にかなうことをいえば猫を斬らない。いえなければ斬る」。だれも答えられない。南泉はやむなく猫を斬った。その晩、高弟の趙州が帰院したので出来事を話した。
趙州は、はいていた草履を脱ぐと頭にのせて出ていった。南泉はいった。「お前さんがいたら、猫を斬らずにすんだのに」。
この公案は、悟りを得て日常生活に戻ったとき、その悟りが活かせるかどうか、悟後の修行の大切さを体得させるためのものだ。あらゆる執着を捨て、「本来無一物」の自由な境地を悟っても、日常は猫一匹の争いに満ちている。師の南泉が猫を斬ったのはなぜか。不殺生戒を破ることになるとは、当然知ってのことだ。
「猫」はだれなのか。また「猫」とは何なのか。南泉は命がけで弟子たちに「道」を問い、弟子たちはこの切所で分別にとらわれて真空無相とはゆかず、即答できなかった。しかし趙州はさすがに悟後の修行にすぐれ、師の剣の下で、とっさに無心のまま汚れた草履を頭にのせて出ていった。行為の意味ではなく、無心で状況と一体化する「禅機」が大切だ。

・・・放下著・・・

厳陽尊者、趙州和尚に問う。
「一物不将来の時、如何」。
州云く、「放下著」。
尊者、更に問う。
「一物不将来、この什麼をか放下せん」。
州云く、「恁麼ならば、担取し去れ」。

趙州に厳陽がたずねた。「何も持っていないときは、どうしたらよいのですか」。趙州がいった。「捨ててしまえ」。厳陽はさらに聞いた。「何も持っていないのに、何を捨てろというのですか」。趙州がいった。「そういうことなら、担いでいけ」。
この公案も、悟後の修行を体得させるためのものである。
厳陽は悟りを得たばかりで、無相の自己を体験し、無一物という澄みきった心境にあった。
しかし、自信に満ち得意気な厳陽の問いかけに、趙州はいきなり「捨ててしまえ」という。「著」は強い命令形である。
何を捨てろというのか。
「無の境地を悟ったと思ったのに、さらに捨てろとはどういうことでしょうか」
厳陽が重ねてたずねると、今度は「担いでいけ」という。
どういうつもりなのか。
趙州がいいたかったことは、「とらわれるな」ということである。
「お前さん、何もない、無一物だというが、後生大事に「無一物」を抱えこんでいるじゃないか。そんなものはさっさと捨ててしまえ。悟ったということにすらこだわってはいけない。そんなに捨てられないのなら、担いでいったらよかろう」
執着を残したままでは、日常生活の場で大自在は得られないのである。

他にも色々あるのですが、またの機会に・・・。
本日で臨済宗については一旦終了です。
後日、また掘り下げた学習をしたいと思います。
さて・・・次の宗派は・・・?
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臨済宗について・・・10

2006-10-04 23:55:06 | 宗教
臨済宗シリーズも終盤になってまいりました。
今回は公案語録を紹介しましょう。

・・・隻手音声・・・

両掌相打って音声あり
隻手になんの音声かある。

「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手ではどんな音がするのか。」
白隠慧鶴が創始した有名な公案である。新到(新参の修行僧)は最初に、師家からこの公案か「趙州無字」の公案を与えられることが多い。
片手の音など聞こえるはずがない。と、考えるのが自然で、もともと知識や常識とは無縁の問いかけなのだ。この公案をぶつけることによって、師家は修行僧を分別のおよばぬ世界へ直入させようとする。
学人(修行僧)は迷う。これまで見につけてきた論理や知識が邪魔をして、なかなか新しい世界へ直入することができない。作務のあいだも坐禅のあいだも「隻手」がちらつき、「なんだ、なんだ」と疑問で身を焦がす。頭のなかだけでなく、体全体が疑問の塊となる。悟りにいたる直前の「大疑団」の状態である。
手や音にこだわるからいけないのだ。これはあくまで例にすぎない。畑を耕す自分を考えてみればよい。夢中になって鍬を振るうちに、周囲のことなど気にならなくなり、我を忘れ、いわゆる三昧となる。畑の土と鍬を振るう自分が一体となっている。「両手を打った音」とはまさにそれだ。
自己と対象が一体とならなければ妙音は出ない。「片手の音」とは、まだ自己と対象が一体となっていない、本来の自己を見失ったままの状態である。思慮分別を捨て、「本来の自己」を究明するおとから禅の修業が始まる。


・・・趙州無字・・・

趙州和尚、因みに僧問う、
「狗子に還って仏性有りや也た無しや」
州云く、
「無」

唐代末期の禅僧趙州に、ある僧が聞いた。「犬にも仏性がありますか」。趙州は答えた。「無」。この公案は「隻手音声」と並んで、所関(はじめて与えられる公案)に使われる第一のものである。
訓は秋月龍のものに従っている。
その教えによると「無」は「なし」と読むのではない。あくまで「む」と読む。「涅槃経」には「一切衆生悉有仏性」(すべての生きものには仏性がある)とあるから、「犬には仏性があるか」と問われれば、経典の知識からいって「ある、なし」で答えるのが普通。それを「無」と答えたところに、この公案のポイントがある。「隻手音声」と同じく分別のおよばぬ世界へ入る関門である。
修行僧が仏性の「ある、なし」や虚無(ニヒリズム)の「無」にこだわれば、どう工夫してもこの公案は透過できない。師家は、「無」の一字が禅の基本である「真空無相」(自我を捨てる。本来無一物)そのもであることを示唆する。「ある、なし」ではなく、絶対的な「無」である。修行僧は四六時中「無」と格闘するうち、やがて三昧の境地に入ってくる。外部の物音も動きも気にならず、自分の内部の妄想も消え果て、真空無相の静寂が訪れる。「禅定」である。無門慧開のいう内外打成一片の境地。自己と対象の「無」字が一体となっている。そして、なにかのきっかけで「無」が爆発したとき、悟りが開けると無門は教えている。

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