・・・達磨の四聖句・・・
お釈迦さまから二十八代目の菩提達磨は中国禅の始祖といわれている。その教えは、六祖慧能によって「達磨の四聖句」としてまとめられ、現在にいたるまで脈々と師資相承されてきた。禅の教化伝法にとって四聖句は基本スローガンである。
・・・教化別伝・・・
お釈迦さまが教えを説いた2500年前、インドにすでに文字はあったが、宗教的教えを文字にすることは冒涜だと考えられていた。お釈迦さまの入滅後、摩訶迦葉ら弟子たちは、師から聞いたとおりを復唱しあって、教えを整理した。これらがのちに、サンスクリット語やパーリー語の経典となった。
「教化別伝」とは、お釈迦さまの教えを集大成したこうした経典のほかに別の教えがあるのではない。
経典の心、すなわちお釈迦さまの悟りの境地を坐禅や日常の修行のなかから直につかんで、それをまた、悟りの境地を求める弟子に、同一レベルで直接伝えていくことをいう。
悟りとは何ものにもこだわらず、何ものにも影響されない絶対的な自己を自覚することだから、その自覚の境地は、文字や言葉では表現しづらいのである。
つまり、お釈迦さまの教えが経典や戒律としてまとめられる以前の、深い禅定によって得られたお釈迦さまの悟りの体験を尊び、言葉や文字では伝えにくいこの教えの真髄を、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることを「教化別伝」というのである。
・・・不立文字・・・
禅ではお釈迦様の悟りの体験そのものを尊ぶ。その悟りとは、坐禅や日常の修行を重ねるなかから直観的に到達するものである。
お釈迦さまは菩提樹の下で深い禅定に入り、暁の明星を見てハッと悟りを得た。
「心性本清浄」
迷いや欲望や知識を捨てたとき、人間は広大無辺な宇宙と一体化し、こだわりのない清浄な自己に到達する。それは周囲の何ものからも影響されない絶対的自己で、生も死も超越した「空」の世界である。
この境地は、やはり修行の体験をとおして、修行僧が自覚するしかないものだろう。
「拈華微笑」の教えで示されたように、お釈迦さまの悟りの境地は言葉や文字では伝えることはできない。
また、その境地を師から弟子へ伝えていくとき、文字は不十分な効果しかもっていない。だから臨済宗であ、特定の経典を読まなくてはならないという制約はない。
「不立文字」とは言葉や文字を否定するのではなく、その限界を知り、まず自ら体験したあと、経典・語録の言葉や文字を味わうことをさしている。
・・・直指人心・・・
そのまま読めば「人の心を直にさすと」となる。つまり、人心とはすなわち仏心。人の心は本来仏様の心と同じものだというのである。
「心性清浄(人間の心は本来清浄なもの)」というお釈迦さまの悟りを自分のものとし、こだわりのない広大無辺な無我の境地「空」何ものにも動かされない本来の自己の発見。これが「仏心」である。
しかし仏心は、いかに経典を読み、書物を読んでも発見できるものではない。禅の修業とは、自分を見つめなおすことであり、書物を読んで思考をめぐらせたり分析したりすることではない。眼を外部に向けず・徹底して自己の内奥を見つめつくす体験にある。そして、その方法が坐禅であり、日常の修行なのだ。
・・・見性成仏・・・
達磨の四聖句の最後、最も重要なのがこの「見性成仏」だ。
結論からいえば、本来そなえている仏性(仏さまになれる本性)を自覚すれば自ずと仏になれるということである。
お釈迦さまが菩提樹の下で坐禅を組み、多くの煩悩と闘いながら開いた悟りそのものなのである。
人はみな本来、仏心「仏の慈悲心」をそなえているのに、それに気付かず迷ったり、煩悩に悩んだりしている。まさに人間は「未完成の仏」だ。
中国の臨済義玄は「自分のなかの一無位の真人(あらゆる束縛から解き放たれた絶対的解脱者)が五官を出たり入ったりしている。早くそれに気づけ」といった。
「見性成仏」とは、坐禅や日常の修行に徹して自己の仏性を見つめつくし、悟りを開いて仏陀となることを修行者に要求した言葉なのである。
自己の仏心に到達することができれば、人間として完成されたと見ていいだろう。
・・・啐啄同時・・・
「啐」とは、雛がかえるとき、内側から卵の殻を吸ったりつついたりすることで、「啄」とは親鳥が外側から卵の殻をつつくこと。修行僧が雛で、師家が親鳥である。まさに悟りに達しようとする機微をさす禅語だ。
・・・以心伝心・・・
師資相承される禅の伝法の方法は、特別な言葉によるものではない。師弟が無心のまま問答し、両者の心がひとつになったとき、印可となる。それはまさに「以心伝心」心から心へ、宗教的体験の共有である。
・・・殺仏殺祖・・・
「仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺す」この臨済義玄の言葉は、既成概念を捨て、徹底して自己を見つめよという意味。そして、殺すに殺せない絶対的自己を根底に置いて、「随処に主となれ」と教える。
・・・悉有仏性・・・
「涅槃経」に「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。すべての生きとし生けるものには、ことごとく仏性がそなわっているという意味。それを確信して修行に励むことを臨済宗中興の祖白隠慧鶴は教えた。
お釈迦さまから二十八代目の菩提達磨は中国禅の始祖といわれている。その教えは、六祖慧能によって「達磨の四聖句」としてまとめられ、現在にいたるまで脈々と師資相承されてきた。禅の教化伝法にとって四聖句は基本スローガンである。
・・・教化別伝・・・
お釈迦さまが教えを説いた2500年前、インドにすでに文字はあったが、宗教的教えを文字にすることは冒涜だと考えられていた。お釈迦さまの入滅後、摩訶迦葉ら弟子たちは、師から聞いたとおりを復唱しあって、教えを整理した。これらがのちに、サンスクリット語やパーリー語の経典となった。
「教化別伝」とは、お釈迦さまの教えを集大成したこうした経典のほかに別の教えがあるのではない。
経典の心、すなわちお釈迦さまの悟りの境地を坐禅や日常の修行のなかから直につかんで、それをまた、悟りの境地を求める弟子に、同一レベルで直接伝えていくことをいう。
悟りとは何ものにもこだわらず、何ものにも影響されない絶対的な自己を自覚することだから、その自覚の境地は、文字や言葉では表現しづらいのである。
つまり、お釈迦さまの教えが経典や戒律としてまとめられる以前の、深い禅定によって得られたお釈迦さまの悟りの体験を尊び、言葉や文字では伝えにくいこの教えの真髄を、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることを「教化別伝」というのである。
・・・不立文字・・・
禅ではお釈迦様の悟りの体験そのものを尊ぶ。その悟りとは、坐禅や日常の修行を重ねるなかから直観的に到達するものである。
お釈迦さまは菩提樹の下で深い禅定に入り、暁の明星を見てハッと悟りを得た。
「心性本清浄」
迷いや欲望や知識を捨てたとき、人間は広大無辺な宇宙と一体化し、こだわりのない清浄な自己に到達する。それは周囲の何ものからも影響されない絶対的自己で、生も死も超越した「空」の世界である。
この境地は、やはり修行の体験をとおして、修行僧が自覚するしかないものだろう。
「拈華微笑」の教えで示されたように、お釈迦さまの悟りの境地は言葉や文字では伝えることはできない。
また、その境地を師から弟子へ伝えていくとき、文字は不十分な効果しかもっていない。だから臨済宗であ、特定の経典を読まなくてはならないという制約はない。
「不立文字」とは言葉や文字を否定するのではなく、その限界を知り、まず自ら体験したあと、経典・語録の言葉や文字を味わうことをさしている。
・・・直指人心・・・
そのまま読めば「人の心を直にさすと」となる。つまり、人心とはすなわち仏心。人の心は本来仏様の心と同じものだというのである。
「心性清浄(人間の心は本来清浄なもの)」というお釈迦さまの悟りを自分のものとし、こだわりのない広大無辺な無我の境地「空」何ものにも動かされない本来の自己の発見。これが「仏心」である。
しかし仏心は、いかに経典を読み、書物を読んでも発見できるものではない。禅の修業とは、自分を見つめなおすことであり、書物を読んで思考をめぐらせたり分析したりすることではない。眼を外部に向けず・徹底して自己の内奥を見つめつくす体験にある。そして、その方法が坐禅であり、日常の修行なのだ。
・・・見性成仏・・・
達磨の四聖句の最後、最も重要なのがこの「見性成仏」だ。
結論からいえば、本来そなえている仏性(仏さまになれる本性)を自覚すれば自ずと仏になれるということである。
お釈迦さまが菩提樹の下で坐禅を組み、多くの煩悩と闘いながら開いた悟りそのものなのである。
人はみな本来、仏心「仏の慈悲心」をそなえているのに、それに気付かず迷ったり、煩悩に悩んだりしている。まさに人間は「未完成の仏」だ。
中国の臨済義玄は「自分のなかの一無位の真人(あらゆる束縛から解き放たれた絶対的解脱者)が五官を出たり入ったりしている。早くそれに気づけ」といった。
「見性成仏」とは、坐禅や日常の修行に徹して自己の仏性を見つめつくし、悟りを開いて仏陀となることを修行者に要求した言葉なのである。
自己の仏心に到達することができれば、人間として完成されたと見ていいだろう。
・・・啐啄同時・・・
「啐」とは、雛がかえるとき、内側から卵の殻を吸ったりつついたりすることで、「啄」とは親鳥が外側から卵の殻をつつくこと。修行僧が雛で、師家が親鳥である。まさに悟りに達しようとする機微をさす禅語だ。
・・・以心伝心・・・
師資相承される禅の伝法の方法は、特別な言葉によるものではない。師弟が無心のまま問答し、両者の心がひとつになったとき、印可となる。それはまさに「以心伝心」心から心へ、宗教的体験の共有である。
・・・殺仏殺祖・・・
「仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺す」この臨済義玄の言葉は、既成概念を捨て、徹底して自己を見つめよという意味。そして、殺すに殺せない絶対的自己を根底に置いて、「随処に主となれ」と教える。
・・・悉有仏性・・・
「涅槃経」に「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。すべての生きとし生けるものには、ことごとく仏性がそなわっているという意味。それを確信して修行に励むことを臨済宗中興の祖白隠慧鶴は教えた。