いにしえの日本で、日本有数の秀才たちが日夜、文字通り血のにじむ思いで打ち込んだ高専柔道。
そのスローガンは「練習がすべてを決する柔道」。これは、弊ブログをお読みの諸賢は既にご存じの通りでございます。
高専柔道に関する考察については、増田俊也の名著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮社)の刊行後、一定数のものが世に出てきましたが、そのほとんどが昔の思い出話(高専柔道の練習がいかに激烈だったか、とか、どれだけ一世を風靡していたかなど)かその焼き直しばかりであり、「高専柔道が『練習がすべてを決する柔道』となったエビデンス」について迫った書き物は、少なくともワタクシの知る限り、「木村政彦は…」も含め、全く存在しませんでした。
そこで今回は、みんながあまり顧みない「努力がすべてを決する柔道」の本質?に、ちょっと悪質な視点(;^ω^)から迫ってみたいと思います。
なお本稿、本来は1回こっきりの読み物にしようとしていましたが、いつものようにまた記載内容が多くなったため、2分割でお送り致しますm(__)m。
高専柔道が「練習がすべてを決する柔道」たりえた最大の理由。それは「ほとんど立たず、徹頭徹尾寝て勝負するルールを守り抜いた」という点。少なくともワタクシはそう結論付けています。
柔道やその他組技系格闘技には「寝技」というカテゴリがありますが、これは極めて異例のもの。
ほかのスポーツ、あるいは格闘技において「寝た状態」というのは競技を中断している、あるいは競技続行不能になった状態であり、競技続行を望むのであれば、常に立ち姿勢でいることが要求されます。
そして、立ち姿勢を維持し続けなければならない競技で勝利を得る必須条件は「立った姿勢で、相手よりキレッキレの動きができること」です。
広島市で「トレーニングクラブ アスリート」を主宰し、各種プロスポーツ選手の筋トレ指導(特にプロ野球界にその信奉者が多い)にあたっている平岡洋二氏によれば、「体のキレ」なるものは、「脚筋力の体重比」の高さに比例するとのことです。以下引用。
「『キレ』なる抽象的な表現で言い表される動きの正体は、主に『脚筋力の体重比』の高低だと、多くの実例で気づかされた。」(令和2年8月25日付大阪スポーツ5面掲載「アスリートの解体書」第8回より)
つまり、「立って動く」ことの重要性が高い競技になればなるほど、その競技でハイパフォーマンスを求めようとすればするほど、必要になるのは「体重に比して高い値を持つ脚筋力」。なるほど、非常に説得力のあるお話です。
しかし、脚筋力を増やすには2つの大きな壁があります。
ひとつは、筋肉はそう簡単につかないモノだ、ということ。
筋肉というのは本来、身体の疲労が少なく、栄養状態に余裕があるときに過負荷を掛けて、初めて増えていくという性質を持ちます。
また、筋肉自体が増えていくスピードはかなり漸進的であり、ボディビルダーが生活の全てを賭けて筋トレと栄養補給に打ち込んで、ようやく薄皮1枚分の筋肉が増えた…という、つけるのに大変労苦が多いものです。
次に、筋肉のつきやすさ、つきにくさにはある程度個人差があるということ。
いわゆるハードゲイナー(筋肉がつきにくい人)・イージーゲイナー(筋肉がつきやすい人)というヤツですね。
「まるで筋トレしないイージーゲイナー(筋肉がつきやすい人)」と、「死ぬほど筋トレするハードゲイナー(筋肉がつきにくい人)」という比較であれば、後者がいずれ筋量で上回る日がくるでしょう。
しかし、イージーゲイナーとハードゲイナーのトレーニング量が同じであれば、その差は縮まることがありません。あとはもう「持って生まれた遺伝子が勝敗を決する」という、ミもフタもないところに行きつきます。
これらのことを鑑みれば、柔道というものは、競技における立ち技の優先度を上げれば上げるほど、そして「立ち技柔道」の競技レベルが上がれば上がるほど「脚筋力がつきやすい遺伝子・体質を持ち、脚筋力がつきやすい豊富な栄養が摂れる環境にある選手以外は勝てない」という色合いが強くなるといえます。
実はわが国には、このことに早くから気づき、大昔からこれを実践している格闘技があります。
それは何か…考えなくてもわかりすよね。答えはそう、相撲です。
力士は原則大男がスカウトされます。脂肪がついていようと何だろうと、「体を大きくできる」というのは「筋肉がつきやすい」ということと≒ですので、とにかく大男をスカウトする。そしてビシバシ稽古して、その後は豊富な栄養を与えてグウグウ寝かせる。
これによって「脚筋力の体重比が高い」身体が養われ、手や膝をついたら負けという、「立ち技オンリー」の格闘技・相撲に勝てる力士ができる…一般常識から鑑みれば一見不思議な相撲部屋の不思議な運営形態は、こと「脚筋力の体重比を上げる」ということに関して言えば、実に合理的だったりするわけですね。
ではここで、高専柔道をやっていた選手の層を確認してみましょう。
旧制高校・高専(ここでいう高専とは現在の高等専門学校ではなく、旧学制に定められた高等工業学校・高等商業学校などを指す。現在の国立大学の工業系学部・商業系学部並み)はわが国トップレベルのエリートたちであり、原則、勉強ばっかりの生活を送ってきた人たちばかり。
そんな頭脳系エリートには当然「立位でキレのある動きをする」などという運動センスはありませんし、だからといってこれまで柔道漬けだった他私学の生徒などに「立ち技柔道」で勝つために「体重に比して高い脚筋力」を求めていたら、それだけで2年半が終わってしまいます。
しかし、これらの問題は、柔道だけに許された競技形態…そう「寝て戦う」ことで、ほとんどのことが解決されます。
寝た状態になれば、最終的には遺伝やセンスがモノを言う「立位の維持による競技形態」から完全に開放されます。
寝技において脚力の発揮はゼロではありませんが、それでも立位での競技時とは比べ物にならないほどプライオリティが落ちるのは、論を俟ちません。
つまり寝技柔道は「持って生まれたセンスを問われない」という点において、極めて平等?な競技形態と言って差し支えないでしょう。
逆に講道館は、昭和に入ってから高専ルールが隆盛を極めるに至り、「高専柔道の普及率恐るべし」との念を強くし過ぎた結果、自分のところの競技理念を「高専ルールの否定」に変えてしまい、自由闊達な寝技を自ら排除する方向に動いた結果、自らの理念である「柔能く剛を制す」からどんどんかけ離れ、自家撞着を起こすようになったとは、なんとも皮肉な話です。
「その2」では、グラップリングの技術的観点から「練習がすべてを決する」の意味を考えてみたいと思います。
そのスローガンは「練習がすべてを決する柔道」。これは、弊ブログをお読みの諸賢は既にご存じの通りでございます。
高専柔道に関する考察については、増田俊也の名著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮社)の刊行後、一定数のものが世に出てきましたが、そのほとんどが昔の思い出話(高専柔道の練習がいかに激烈だったか、とか、どれだけ一世を風靡していたかなど)かその焼き直しばかりであり、「高専柔道が『練習がすべてを決する柔道』となったエビデンス」について迫った書き物は、少なくともワタクシの知る限り、「木村政彦は…」も含め、全く存在しませんでした。
そこで今回は、みんながあまり顧みない「努力がすべてを決する柔道」の本質?に、ちょっと悪質な視点(;^ω^)から迫ってみたいと思います。
なお本稿、本来は1回こっきりの読み物にしようとしていましたが、いつものようにまた記載内容が多くなったため、2分割でお送り致しますm(__)m。
高専柔道が「練習がすべてを決する柔道」たりえた最大の理由。それは「ほとんど立たず、徹頭徹尾寝て勝負するルールを守り抜いた」という点。少なくともワタクシはそう結論付けています。
柔道やその他組技系格闘技には「寝技」というカテゴリがありますが、これは極めて異例のもの。
ほかのスポーツ、あるいは格闘技において「寝た状態」というのは競技を中断している、あるいは競技続行不能になった状態であり、競技続行を望むのであれば、常に立ち姿勢でいることが要求されます。
そして、立ち姿勢を維持し続けなければならない競技で勝利を得る必須条件は「立った姿勢で、相手よりキレッキレの動きができること」です。
広島市で「トレーニングクラブ アスリート」を主宰し、各種プロスポーツ選手の筋トレ指導(特にプロ野球界にその信奉者が多い)にあたっている平岡洋二氏によれば、「体のキレ」なるものは、「脚筋力の体重比」の高さに比例するとのことです。以下引用。
「『キレ』なる抽象的な表現で言い表される動きの正体は、主に『脚筋力の体重比』の高低だと、多くの実例で気づかされた。」(令和2年8月25日付大阪スポーツ5面掲載「アスリートの解体書」第8回より)
つまり、「立って動く」ことの重要性が高い競技になればなるほど、その競技でハイパフォーマンスを求めようとすればするほど、必要になるのは「体重に比して高い値を持つ脚筋力」。なるほど、非常に説得力のあるお話です。
しかし、脚筋力を増やすには2つの大きな壁があります。
ひとつは、筋肉はそう簡単につかないモノだ、ということ。
筋肉というのは本来、身体の疲労が少なく、栄養状態に余裕があるときに過負荷を掛けて、初めて増えていくという性質を持ちます。
また、筋肉自体が増えていくスピードはかなり漸進的であり、ボディビルダーが生活の全てを賭けて筋トレと栄養補給に打ち込んで、ようやく薄皮1枚分の筋肉が増えた…という、つけるのに大変労苦が多いものです。
次に、筋肉のつきやすさ、つきにくさにはある程度個人差があるということ。
いわゆるハードゲイナー(筋肉がつきにくい人)・イージーゲイナー(筋肉がつきやすい人)というヤツですね。
「まるで筋トレしないイージーゲイナー(筋肉がつきやすい人)」と、「死ぬほど筋トレするハードゲイナー(筋肉がつきにくい人)」という比較であれば、後者がいずれ筋量で上回る日がくるでしょう。
しかし、イージーゲイナーとハードゲイナーのトレーニング量が同じであれば、その差は縮まることがありません。あとはもう「持って生まれた遺伝子が勝敗を決する」という、ミもフタもないところに行きつきます。
これらのことを鑑みれば、柔道というものは、競技における立ち技の優先度を上げれば上げるほど、そして「立ち技柔道」の競技レベルが上がれば上がるほど「脚筋力がつきやすい遺伝子・体質を持ち、脚筋力がつきやすい豊富な栄養が摂れる環境にある選手以外は勝てない」という色合いが強くなるといえます。
実はわが国には、このことに早くから気づき、大昔からこれを実践している格闘技があります。
それは何か…考えなくてもわかりすよね。答えはそう、相撲です。
力士は原則大男がスカウトされます。脂肪がついていようと何だろうと、「体を大きくできる」というのは「筋肉がつきやすい」ということと≒ですので、とにかく大男をスカウトする。そしてビシバシ稽古して、その後は豊富な栄養を与えてグウグウ寝かせる。
これによって「脚筋力の体重比が高い」身体が養われ、手や膝をついたら負けという、「立ち技オンリー」の格闘技・相撲に勝てる力士ができる…一般常識から鑑みれば一見不思議な相撲部屋の不思議な運営形態は、こと「脚筋力の体重比を上げる」ということに関して言えば、実に合理的だったりするわけですね。
ではここで、高専柔道をやっていた選手の層を確認してみましょう。
旧制高校・高専(ここでいう高専とは現在の高等専門学校ではなく、旧学制に定められた高等工業学校・高等商業学校などを指す。現在の国立大学の工業系学部・商業系学部並み)はわが国トップレベルのエリートたちであり、原則、勉強ばっかりの生活を送ってきた人たちばかり。
そんな頭脳系エリートには当然「立位でキレのある動きをする」などという運動センスはありませんし、だからといってこれまで柔道漬けだった他私学の生徒などに「立ち技柔道」で勝つために「体重に比して高い脚筋力」を求めていたら、それだけで2年半が終わってしまいます。
しかし、これらの問題は、柔道だけに許された競技形態…そう「寝て戦う」ことで、ほとんどのことが解決されます。
寝た状態になれば、最終的には遺伝やセンスがモノを言う「立位の維持による競技形態」から完全に開放されます。
寝技において脚力の発揮はゼロではありませんが、それでも立位での競技時とは比べ物にならないほどプライオリティが落ちるのは、論を俟ちません。
つまり寝技柔道は「持って生まれたセンスを問われない」という点において、極めて平等?な競技形態と言って差し支えないでしょう。
逆に講道館は、昭和に入ってから高専ルールが隆盛を極めるに至り、「高専柔道の普及率恐るべし」との念を強くし過ぎた結果、自分のところの競技理念を「高専ルールの否定」に変えてしまい、自由闊達な寝技を自ら排除する方向に動いた結果、自らの理念である「柔能く剛を制す」からどんどんかけ離れ、自家撞着を起こすようになったとは、なんとも皮肉な話です。
「その2」では、グラップリングの技術的観点から「練習がすべてを決する」の意味を考えてみたいと思います。
実は、「七帝」をずっと間近でご覧になられていた老骨武道オヤジ様が、今回放って頂いたクエスチョンのおかげで、「その2」の原稿にだいぶふくらみが出たように思います(半分くらい書き直しました(;^ω^))。
大変感謝いたします。また、「その2」が、老骨武道オヤジさまのお気に触らない内容でことを、祈るばかりです(;^ω^)。