集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

柔道の質を落としたと噂の???「ポイント制柔道」、意外な発祥地

2023-07-27 06:07:09 | 格闘技のお話
【コメント欄「通りすがりのコメントです。」様のご指摘により、講道館柔道試合審判規定等においては現在も「有効」が有効(←シャレじゃないです(;^ω^))ということが明らかとなりましたため、文面が初稿とは異なっておりますことをご寛恕下さいm(__)m)

 オリンピックなどで採用される国際柔道審判規定(以後、IJFルールと呼称)から現在は排除されましたが、かつてIJFルールには「有効」「効果」なるポイントが存在しました。

 やっている側も意味が分からず、ワタクシも約4年間の柔道修行期間中、取ることも取られることもなかった「効果」については平成21(2009)年、それなりにルールに溶け込んでいた「有効」については平成29(2017)年、IJFルールから排除されましたが、排除の理由はリオ五輪を前にIJFが発表した「柔道の本質」(ネタ元・Youtube「国際柔道連盟試合審判規定説明動画」)によりますと、おおむねこんな感じ。

「柔道の本質とは『技で勝負を決すること』である。(中略)正々堂々と組み合って、試合場の中央で技をかける必要があることを審判員・選手は理解しておく必要がある」
「ルールの多くは試合者のためにあるのではなく、その試合を観戦し、柔道を見て楽しむ観客のためのものであるから、組まなかったり、場外に出るようなネガティブな行為は試合をつまらなくするため罰せられるのである」

 …なんとも理解に苦しむ説明ですが、要するにオリンピック柔道を「細かいポイント設定を止めることで、観る専のヨカタ(門外漢のシロウトを指す相撲・プロレス界の隠語)に分かりやすくしよう!」ということだけはわかりました(;^_^A。
 しかし、リオ五輪を契機に制定されたこの「判定は技ありまで、『指導』で試合運びが大きく変わる、ゴールデンスコアで恐ろしいほどの長い延長戦」という、ヨカタが観て楽しむためのルールを、ある連中がしきりに持ち上げるようになります。
 それは柔道に対して「一本を取る柔道こそが真の武道である」というファンタジーを信じている情弱柔道家たちです。

 弊ブログでは「長い長い歴史」のなかで「柔道の本質」についてたびたび取り上げ、柔道とは以下のような武道だと結論付けられています。
① 柔道はもともと、学校教育に取り上げてもらうために整備されたもので、この世に登場した時点で「試合に勝つ!ための柔術」だった。
② 明治30年代に当時の高校生が「ルールを作り、それを駆使したスポーツ柔道」となる柔道の原型を作り上げ、講道館もゴチャゴチャ反論していた割には「試合の企画・運営力」という点において勝っていた学生柔道にそのままズルズル引っ張られ、「スポーツ柔道」≒「柔道」という認識が修行者の間に蔓延した。日清・日露戦争に起因する、ヨカタによる「武道ブーム」がそれに拍車をかけてしまった。
③ 明治40年以降、柔道・県道が学校教育に組み込まれるに至り、柔道は完全に「試合に勝つためのスポーツ柔道」≒「柔道」となった。以後、嘉納治五郎が希求した「勝負法」(「勝負法」については「長い長い歴史」参照)は永遠に叶わぬ夢となり、現在に至る。

 柔道の歴史をほんの少しほじくり返せばこの程度のことはすぐにわかるんですが、アタマの中に道着が詰まっているような情弱柔道家は
「柔道とは殺傷能力のある武道だ!」
(↑舗装道路上で投げを食らえばただでは済まないが、柔道以外の組技にも当然投げはあるから「柔道の投げ技は殺傷力があるけど、ほかの組技に殺傷力がない」というのは理論の飛躍が過ぎる。)」
「一本を取る柔道こそが、柔道の本質だ!」
(↑明治末年まで、講道館では三本勝負が当たり前で、一本勝負は講道館原理主義派が忌み嫌う高専柔道が発祥。)
などという世にも恥ずかしい(/ω\)世迷い言を、今日もどこかで臆面もなく言っているわけですな。

 さて、こうした情弱は「一本を取る柔道こそが、柔道の本質だ!」という発言と並行してよく、こんなことも言います。
「前の東京オリンピック(昭和39年)で柔道が競技採用されたとき、体重制とポイント制が採用されたため、『小能く大を制する』という柔道がなくなり、柔道が堕落した!」
 それでは本稿のメイン、この発言がどう世迷い言なのか、どう恥ずかしい(/ω\)発言なのかということをお話ししましょう。

 柔道の試合審判規則の草分けとなったのは、明治32年に武徳会が制定した「大日本武徳会柔術試合審判規程」、次いで翌33年に講道館が制定した「講道館柔道乱捕試合審判規程」。これは以前「長い長い歴史」の第10回で取り上げていますので、興味のある方は確認してみて下さい。
 このころは「勝負三本」「技ありを2本取っても『合わせ一本』にならないことがある」など、実に雑なものでしたが、その後、柔道のスポーツ化によってどんどんルール整備が進みます。
 そのムーブメントの中で、最も最初に細かいポイント制度を作り上げて試合をしたのはなんと意外なことに…戦前にいくつか存在した「柔道の総本山」の一角、警察柔道だったのです!

 現在も連綿と続く全国警察柔道大会は、昭和4(1929)年に開始され、戦前は昭和11年の第8回大会までが開催されました(シナ事変のため中止。昭和15年には皇紀2600年記念橿原神宮大会の一部として大会が例外的に行われたが、原則終戦まで中断)。
 第1回大会は昭和4年10月28~30日にかけ、陸軍外山学校で盛大に挙行されましたが、この試合審判規定に、ほかの柔道試合ではちょっと見ない珍しい1項が設けられていました。
「勝負決セザルトキハ姿勢、態度及ビ技術等ニ就キ審判ハ其ノ勝敗ヲ決ス」
 今では全く信じられないことですが昭和初期のこの当時、民間で行われていた柔道大会は「寝技時間無制限、引き分けは戦術のひとつ」という、いわゆる「高専ルール」が主流を占めており、特に西に行くほどその傾向が顕著でしたが、それを根底から覆すルールを組み込んだわけです。
 残念ながら第1回大会は「立派な審判がすばらしい眼力で、無気力試合や消極試合をビシバシ取り締まってくれるだろう!!」という、のんきな性善説に頼っていたため、「態度及ビ技術等」で勝敗を決める事態は起きなかったようですが、当時としては画期的だった「引き分けなし」はなかなかの反響を呼び、昭和6(1931)年の第3回大会ではついにわが国初となる「ポイント制」が発案・運営されます。
 このときのルールは1本勝ち10点、技あり勝ち7点、後年の「有効」に相当する技で5点が計上され、団体戦5人が挙げた総得点数で勝敗を決する、というもの。
 ちなみに当時の「5点」に相当する技とは①投技では技ありに近い技②押さえ込み20秒以上(当時の押さえ込み1本は30秒)でした。

 ではなぜ警察は「引き分けなし」という、当時としてはよく言えば画期的、悪く言えば常識破りなルールを採用したのか?
 理由は複数存在しますが、とても大きな理由の1つに「当時の警察柔道、ひいては講道館の敵でもあった高専柔道への強い対抗意識があった」ことは間違いないと思います。

 現代の柔道しか存じない方は驚くかもしれませんが、昭和初期における「柔道大会」のルールの主流は、「勝負を決するのは一本勝ちのみ」の高専ルールでした。当時のピュアといえばピュア、情弱といえば情弱な学生柔道家たちはこの「一本勝ちだけが勝利を決する」ということにファンタジーをロマンを描き、それが爆発的な人気の源となっていました。
 極左高専柔道原理主義作家・増田俊也あたりはこの部分だけを切り取って「高専柔道は戦前、まさに主流の柔道だった!」などと興奮していますが、ここで高専大会ルールの本質をドン!と衝いてしまいましょう。

 そもそも高専大会において寝技が発達した理由は「ろくな運動経験もない旧制高校・高等専門学校の学生が、2年少々の少ない修行期間で、立ち技の効く相手をストップさせる」ため、最も有効な手段だったからであり、「一本勝ち以外を勝利と認めない」というルールも、それを補填するためだけに採用されたルールです。
 高専柔道の代名詞といえば寝技ですが、はっきり言いますと「ストップ・ザ・立ち技」でさえあれば、その手段は寝技でなくともよかったわけであり、実際、まだ寝技の有効性が認知されていなかった黎明期の高専柔道において、旧制四高(現・金沢大)が生み出した「ストップ・ザ・立ち技」の戦法は立膝のまま動かないという「ガンバリ」というものでした。その後に六高(現・岡山大)師範の岡野好太郎が同ルールにおける寝技の有用性にいち早く気づき、これを体系化したため、以後「高専ルール≒寝技」路線が確立されたというわけです。
 ではなぜ、こんなイビツなルールが戦前に主流たりえたのか?
 高専柔道を描いた凡百の書籍では「高専大会は、帝大柔道会という学生の自主団体が運営した、自主自立の大会だった」みたいなことばかりが書かれていますが、偏差値が高いだけのガキの集団があのような巨大な大会や、それに連なる枝大会を運営できるだけの組織力や資金力があったとは到底考えられません。
 それをゴリ押しできたのは間違いなく、そのイビツな柔道のリードオフマンが、当時のわが国におけるトップクラスのエリートであった旧制高校生→帝大生(当時の旧制高校は、学部選択でゼイタク言わなければ、どの帝大でも入れた)→高級文部官僚や財閥系企業の重役だった!からにほかならず、戦後にその威勢を一気に失ったのも、結局は高専柔道を陰に陽にサポートしていた戦前の官僚制度や財閥経済が一時崩壊し、そのイビツな柔道を保全してくれるバックを失ったからにほかなりません。高専柔道側からしかものを見られない作家・増田俊也は「謎だ、謎だ」などと言っていますが、時代背景をトレースすれば、すぐわかることです。
 嘉納治五郎は高専柔道に生涯白い眼を向けつつ、けっきょくはほぼ黙認していましたが、高専柔道のルールの異常性と、しかしそれを運営する連中の「巨大な政治力」を勘案すれば、「黙認」というのが一番現実的で波風が立たないと考えたうえでの苦渋の決断だったのでしょう。

 警察柔道がポイント制を敷いた理由について記したものはいくつかありますが、戦後に施行された「柔剣道試合における審判について」(昭和31年9月29日務発第151号警察庁警務部長発)という警察部内通達が、いちばんよく書かれていると思いましたので引用します。
「…柔道試合において引分けを狙うあまり、その技を競うことを放棄し、時間を空費するに専念する如き(中略)、この種の行為によって試合は低調不明瞭なものとなり、そこで涵養すべき敢闘精神を反って損ない、警察教養の本旨にそむくような結果を招く…(中略)…最近においてもなお旧来の弊風が、依然として後を絶たないごとくである。」
 ここでいう「旧来の弊風」とは、とりもなおさず高専ルールのことで、このころ審判長をしょっちゅうやっていた警察柔道のドン・工藤一三(くどう・かずぞう。1898~1970。講道館柔道九段、大日本武徳会範士。警察大学校教授)も「頑張り合い、引き分けが多くて、低調なものとなり、見られたものではないとの批判を受けるようならなんにもならぬ」と発言しています。
 工藤がいう「頑張り合い」とはとりもなおさず、前述の高専柔道における「ガンバリ」であるのは間違いなく、要するに警察柔道は「ガンバリ」≒寝技への引き込みを含む、立ち技に付き合わない各種行為を排することを土台にルール作りをしたわけです。
 立ち技に細かいポイントを設定し、原則立ち技で勝負させる。寝技も押さえ込み秒数を細かく設定する。寝技の「待て」のタイミングはできる限り早く。反則に関するポイントも細かく設定して試合の遅延行為を許さないなどなど、見れば見るほど「高専柔道へのアンチテーゼ」が見て取れます。
 また、警察柔道はこの細かなポイント設定によって、僅差判定が出やすい団体戦での勝敗を明確にして円滑な試合運営(要するに、負けた側がゴチャゴチャ文句を言ってこないようにする)を狙うとともに、もともと立ち技メインで技術体系を形成していた講道館柔道への原点回帰を狙った、と考えても不思議ではありません。だって警察柔道はその黎明期から、講道館とは深い深い関係があるんですから…
(いまひとつ、警察柔道がポイント制を採用した理由は「大正末期、高専柔道に大いに不覚を取ったため、同じく高専勢に不覚を取った東京学連と組んで、高専とは違うルールを奉じざるを得なかった」というのもありますが、今回は端折ります(;^ω^))

 話はもとにもどりますが、ここで冒頭に掲げた情弱柔道家の発言をプレイバックしてみましょう。
「前の東京オリンピック(昭和39年)で柔道が競技採用されたとき、体重制とポイント制が採用されたため、『小能く大を制する』という柔道がなくなり、柔道が堕落した!」

 再度確認します。
 体重制のことはさておき、ポイント制が採用されたのは戦前の警察柔道、厳密なポイント制を敷くようになったのは昭和6(1931)年の第3回全国警察柔剣道大会からです。前回の東京五輪開催より33年も前のことで、全然関係ありません。
 警察柔道におけるポイント制度は、立ち技に付き合わない行為のすべてが許容される「高専ルール」の完全アンチテーゼとして生まれ、結果として「柔道の堕落」どころか、「講道館が昔目指した、立ち技偏重柔道への回帰」を推進したのです。
(戦後は昭和28年大会のみ「引き分けなし」としたが、やはりというか何というか、戦術的「ガンバリ」試合が目立つようになり、昭和63年から再度「引き分けなし」の通達が発出される。以後は不明です(;^_^A)

 なぜか柔道家には驚くレベルの情弱がまま存在し、その発言にぶっ飛ぶことがあるんですが、今回はぶっ飛んで転んだついでに調べた結果、意外とオモシロい事実が発掘されたので文章に起こしてみました。

4 コメント

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Unknown (老骨武道オヤジ)
2023-08-01 17:55:11
武道武術を競技(試合)化するのは実に難しいものです。しかし試合を否定した武術は実に滑稽で陳腐になり果てることは永年真面目に稽古に取り組んできた経験から分かります。「こんな技で人が倒せるものか!」審判はこの共通認識をもって試合を裁いていただきたいと思います。以上、当たり前のことを言っちゃいました(-_-;)・・チャンチャン・・。
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Unknown (通りすがりのコメントです。)
2023-08-06 11:50:04
通りすがりのコメントです。

本文中に、
>「「有効」については平成29(2017)年に全廃されました」
とありましたが、それは国際柔道連盟規定における話で、講道館主催の講道館規定の試合や、国際規定でも各大会の申し合わせ事項によっては現在でも「有効」は使用されていますよ。

>令和5年全日本柔道選手権大会要項
http://kodokanjudoinstitute.org/02ff612e963ae27e823ecf274d5a16b30e3e7d4d.pdf
>9.審判規程
>①国際柔道連盟試合審判規程および全日本選手権大会申し合わせ事項にて行う。申し合わせ事項と
して、スコアは「一本」「技あり」「有効」の3種類とし、「技あり」2つで合せ技「一本」とする。

国際柔道連盟規定はIJF主催の国際大会のみでなく、日本国内でも全日本柔道連盟主催の大会でも採用されて主流で行われるようになっていますが、講道館主催の高段者大会等の諸大会では講道館規定は依然採用されており、足取り技や立ち関節技や立ち絞め技なども現役の柔道技として使用されています。


貴ブログサイトにて辛口で評されていますように、柔道の(現行)乱取り試合というものは嘉納の言にあるとおり「体育法の乱取り」を元にしたものです。私としては嘉納が明治22年の「柔道一斑並びに其の教育上の価値」頃から言及し必要性を説き、古武道研究会などで研究を進めた「勝負法の乱取り」(当身技や立ち関節技、武器術も含むもの)も柔道において実現出来ないものかと思案し調べているところです。
そういったところで貴ブログサイトに辿り着きました。
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ありがとうございます! (周防平民珍山)
2023-08-06 19:42:04
 老骨武道オヤジ様、通りすがりのコメントです。様、共にありがとうございます。
 特に通りすがりのコメントです。様におかれましては、「講道館柔道試合審判規定等では、未だ『有効』は有効」とのご指摘を頂き、自らの調査不足と無知を愧じるところ、大でございました。
 ほんとうに感謝申し上げますm(__)m。

 通りすがりのコメントです。様は、嘉納治五郎が主張していた「体育法・修身法・勝負法」をご存じであり、この現代に勝負法を研究されているあたり、柔道を深く愛する大変な有識者と存じます。

 ただ、「『勝負法』を体系化し、実施できるか否か」ということに関するワタクシの個人的見解は拙稿「警察術科の長い長い歴史」で述べたとおり、「『警視庁柔道基本 捕手ノ形』の出来を見る限り、それは不可能」という見解しか示すことができませんでした。

 ワタクシももともと、格闘修行の出自は柔道だったのですが、いろいろと足らざることが多すぎたため、様々な武道・格闘技を「1つずつ、帯に黒い色がつくまで、他のことを混ぜずに」稽古を重ねることを20年以上続けた結果、「現代日本に於て、ひとつの武道・格闘技だけを以て全てをカバーしようというのは絶対不可能!」との結論を得たわけでございます。
(むろん、「そうじゃない!」という意見もあると思います。上記はあくまでも、凡夫であるワタクシの感想です)

 ご指摘のありました部分は直ちに加筆修正致します。ありがとうございましたm(__)m。
 
 
返信する
Unknown (通りすがりのコメントです。)
2023-08-11 07:47:18
周防平民珍山様。
迅速なご返答と対応をいただきありがとうございます。

その他多少意見がありましたので、コメント投稿の形で失礼致します。
投稿しない手もあったのですが、心残りするのも息苦しいため、多少失礼致します。
自分自身も色々と貴ブログサイトにて学ばせてもらっており、沢山の学びを頂いております。

指摘事項としましては、柔道の三大修行の目的のうち、修身法と書かれていますが、嘉納の言を見ますと、修「心」法の表記が正しいようです。
自分も修「身」法の方が意味合い広く用いることが出来るように感じていますが、嘉納の言の中には修身法の文字は見受けられません。他にも「練心」の語を使っている場面もあります。
『嘉納治五郎大系』の第十四巻に全巻の索引がありますので、このようなことは調べることは可能になっています。

自分自身、柔道における「勝負法の乱取り」の実践は不可能ではないと思っております。
嘉納思想の後継者としての、幾つかの事例がある故です。
自分は、嘉納思想における勝負法を正しく受け継いでいたのは、望月稔の養正館(養正館総合武道)(国際武道養正館)ではなかったか、と思っています。望月稔自身はその武道理念として「精力善用・自他共栄」を掲げ続け引き継いだ上で、古武道研究会の技術をまとめ上げた形となっています。
また、戦時中に講道館二代目館長であった南郷次郎とその指令を受けた富木謙治も、嘉納思想における勝負法の継承者であったと思われます。富木謙治は南郷次郎の命により、勝負法の乱取り(柔道第二乱取り)をまとめることを使命としておりました。戦後、GHQにより柔道が競技柔道に制限された故に柔道界に居場所がなくなり、柔道界とは別な形で発表しましたが、彼の思想も嘉納の勝負法(と体育法)を受け継いだものとなっています。
また、嘉納思想とは並行する形ですが、大日本武徳会の動きがあったことも忘れてはいけない要素だと思っています。貴ブログにおいても指摘がありましたが、戦時中に大日本武徳会は改組があり、東條武徳会と呼ばれる体制となっております。その時期に、柔道審判規定にも改訂が施されており、栗原民雄を中心として、戦技化が進められていたことが指摘されています。そこでは、戸外、如何なる服装でも実施するものとし、複数人での自由掛けも行われ、技術においても全身の関節技の解禁と、当身技のある試合も示唆されていたようです。そのことは『近代日本の武道論「〈武道のスポーツ化〉問題の誕生」』(中島哲也・著)の374ページ以降に指摘があります。原典自体は戦前の雑誌『新武道』(国防武道協会)によるようで、自分もその原典に当たろうとしているところですが、地方の大学図書館にしか置いていないようで、中々動けずにいるところです。
海外を見ましては、柔道を基とした寝技柔道のブラジリアン柔術や、サンボ(コマンドサンボ)、空手の当身と柔道を融合したヨーロピアン柔術などあります。
また、戦前・大戦時から海外で軍事利用され行われていたとされているCOMBAT JUDOもあります。
https://sites.google.com/view/combat-judo-international/

狭義の柔道と広義の柔道という考えがあり、狭義の柔道としては周防平民珍山様のおっしゃられている体育法の柔道(競技柔道)で正しいでしょう。
しかし、嘉納の言うところの「講道館文化会」以降明文化された広義の柔道は、競技のみに制限することを目的とはしませんでした。
時代の変化と共に、柔道界は変わる、また変える状況は必ず来ると確信しています。顧みられることのなくなっている様々な事例もまた息を吹き返すことになるであろうと思い、自分は少しでも世に広めることが出来ればと考え行動しています。

出来得れば、周防平民珍山様とも建設的で有意義でWin-Winの関係となり得るような情報交換や意見交流をしたいと思っております。
周防平民珍山様自身はシビアで現実的な審美眼の持ち主であり、私の言の中にも多々の粗を見抜きご指摘されることと思います。その上でお互いを高め合える建設的な意見交換の関係となることが出来ましたら大変喜ばしいことですが、言い合ったり言い負かそうとしたりの平行線になることも予想されます。
もし私の意見に不信感や不快感を感じることとなりましたら、そういった変人の意見が何処かにはある、ということだけでも認識して頂ければ幸いと思います。
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