ワタクシが勤める会社は「船を動かす」ことが主要業務にある関係上、レベルの上下は相当な振れ幅がありますが(;'∀')、いわゆる理系脳を持つ人間が多数おります。おそらく弊社社員のなかで、ワタクシのような完全文系脳の人間は、イリオモテヤマネコ並みに少ないんじゃないでしょうか。
さて、今回のタイトルはズバリ「武道・格闘技の習得には文系脳が必要」という、何やら理系脳の人にケンカを売っているようなものとなっていますが、これはワタクシの20年以上に亘る武道・格闘技の修行やウォッチングの結果ですので、ただの因縁や言いがかりではありません。
少し耳を傾けていただき、どこか1つでも頷首して頂けるところがあれば幸いです。
ワタクシはこれまでおそらく、1000人を超える「道場生」という方とすれ違ってきましたが、その中には武道・格闘技から、補強運動であるウェイトトレーニングそのものにシフトチェンジしてしまう人がけっこういました(そしてその後、運動自体を止めてしまう)。
そうした人たちはほぼ例外なく、理系のアタマを持つ方々でした。
理系のアタマを持つ方々は「これくらいのトレーニングをこれくらいやって、こういう食べ物とこれくらいの休息を取れば、こういう成果が出るはずだ」ということを無意識に計算し、それを武道・格闘技の上達の過程にそっくり当てはめようとします。
中にはこの「計算」ができることが長じて「計算とは常に正しいものであり、それを駆使できるオレの言うことも絶対に正しい」という、鼻持ちならない自信を持つヤツもいます。これまた、理系脳独特?の考え方といえましょう。
しかし、理系脳諸君のその考え方は、重大なことが完璧に抜け落ちています。
それは「武道・格闘技の稽古をするのは、計算通り正確に動いてくれる集積回路や機械ではなく、生身の人間様だ」ということ。
人間の身体は遺伝・個体差が大きいため、体力・筋力などの性能に相当なバラツキがあります。また精神的なものについても、何かのきっかけで信じられないほど頑張ることもあれば、信じられないほど懈怠・堕落することもあります。
さらに言えば、武道・格闘技は人間を相手にするものであり、その相手の体格・体力・精神力もまた、一種一様のものではありません。
要するに武道・格闘技は「何かの法則に基づいて計算する」ということ自体ができないものなのです。
しかし、自らの認識自体が間違っていることに気づかない理系脳は、思うように上達しないという事実に対し、「こんなに計算したのに成果が思うように出ないのは、指導者の指導が悪い」「オレにはこの武道は向いていない」などと安易に考え、簡単に道場を後にします。
この「自分の計算通りにいかないと、すぐ他罰的な言動に出る」というのも、理系脳の特徴のひとつといえましょう(理由は後述)。
なお、そうした輩は「自分の計算」が武道・格闘技に比べて比較的反映されやすいウェイトトレーニングに逃げがち(ワタクシの師匠はこれを「肉に逃げる」と呼んでいました)ですが、ウェイトだって、ある程度までは「計算」で何とかなりますが、それ以上を目指すのであれば、理屈や計算を越えた理不尽なトレーニングが必要になりますから、これですら、計算でなんとかなるような甘いもんじゃありません。
そしてすべてに窮した理系脳は、運動自体を止めちゃう…ワタクシはこんな光景を、幾度となく見ました。
ワタクシが「武道・格闘技には文系脳が必要」と説いた理由はまさにこのあたりにあります。
理系脳にない文系脳の長所は2つ。
ひとつは「理論や理屈じゃ理解できないことを、自分の中で折り合いをつけ、納得させることができる」こと。
いまひとつは「物事の良し悪しを判別し、自らの行動に方向性を持たせることができるようになる」ことです。
ひとつめの解説について。
武道・格闘技の稽古ははっきり言いまして、理不尽・不可解・不明確なことの繰り返しです。
「体格が良ければ絶対に勝つ」「筋力が多ければ絶対に勝つ」なんて単純なことはありえませんし、「稽古量が多ければ勝つ」という、一見正しそうなことだって、「絶対」じゃありません。
負けに不思議の負けはなくても、勝ちには不思議の勝ちがある。
上達しないことに不思議はなくても、上達するときには、なぜか不思議な縁がある。
武道・格闘技とは、そんなことの繰り返しです。
公理・法則性を無視した考えができる文系脳は「これはそういうものなのだ」という、悟りに近い気持ちを自らの中に持つことを許せますから、そうした理不尽・不可解に対しても、強い気持ちで向かい合うことができます。
しかし理系脳は、何に対しても「絶対」を求めたがりますから、そうした事実が全く理解できませんし、そういう事実が存在すること自体が「許しがたいこと」と映るのです。
ふたつめの「物事の良し悪しを判断し、自らの行動に方向性を持たせることができる」について。
かつてナチスドイツは優秀な科学者をたくさん持っていましたが、それがドイツを幸福にしたかといえば、皆「NO」というでしょう。
要するに理系脳は、計算こそ得意であっても「その計算をどう使うか」ということにまで考えが及んでおらず、結果、自らの計算結果だけを暴走させる≒最終的に何も身につかない、という結果に終わることが多いのです。
「いや、旧制帝大や早慶レベルの大学では、理系の学生がスポーツでも大活躍してるじゃないか」という向きもあると思います。
しかし、そのレベルの学力を持つ学生さんともなれば、専攻課程が理系というだけであって、そんじょそこらの大学文系では相手にならないくらいの文系アタマも併せ持っているもスーパーな人間。だからそうしたヒトは、何でもできて当たり前。今回の議論の俎上に挙げちゃダメです。
ちなみにワタクシの話に出てくる「理系脳」は、学歴レベルで言いますと…三流どころの大学卒(または中退)、高等専門学校の落ちこぼれ、低レベルな普通科高校卒…といった面々です。
(ちなみに商業・工業高校出身の方はなぜか、行儀が良くて熱心な「優秀道場生」ばかりだったので、今回の「理系脳」議論からは除いています)
ワタクシがこれまでの修行の過程ですれ違ってきたこれらの方々の中で、きちんと帯に黒い色がつくまで稽古を全うした人間は…ほとんど存在しませんでした。
幕末の大思想家・吉田松陰先生は幼少期から大天才の誉れ高く、若年にして古今の学問をほぼ全て修めていました。おそらく「ただの学者」として生きていれば、「長州の誇る大賢人」みたいなポジションで天寿を全うしたはずです。
しかし実際には、アメリカ渡航を企図して入牢、全国の賢人を求めて西東に奔走、見かねた家族が長州藩に「なんとか放浪を止めてくれ」との願いから特別措置?の入牢、最終的には架空の老中暗殺計画を自白して死罪、という、学者先生とは思えない狂気に満ちた短い生涯を終えています。
しかしそれらの行動は、松陰先生が本当に気が狂ったゆえのものではありません。
学問に次ぐ学問を修めた先生が最後に到達した境地こそ「学問を生かすとは、大きなことを為すとは、こうしたいっけん、狂ったように見える行動こそが必要なんだ!」ということを自ら弟子たちに示しただけであり、あの名言「諸君、狂いたまえ」に繋がるわけです。
武道・格闘技の習得にも、松陰先生が示したような一種の「狂気」が必要であることは論を俟ちません。
その「狂気」は、理系アタマでは絶対に理解できません。「狂気」は文系頭でのみ涵養できる、ということでオチをつけたいと思います。
さて、今回のタイトルはズバリ「武道・格闘技の習得には文系脳が必要」という、何やら理系脳の人にケンカを売っているようなものとなっていますが、これはワタクシの20年以上に亘る武道・格闘技の修行やウォッチングの結果ですので、ただの因縁や言いがかりではありません。
少し耳を傾けていただき、どこか1つでも頷首して頂けるところがあれば幸いです。
ワタクシはこれまでおそらく、1000人を超える「道場生」という方とすれ違ってきましたが、その中には武道・格闘技から、補強運動であるウェイトトレーニングそのものにシフトチェンジしてしまう人がけっこういました(そしてその後、運動自体を止めてしまう)。
そうした人たちはほぼ例外なく、理系のアタマを持つ方々でした。
理系のアタマを持つ方々は「これくらいのトレーニングをこれくらいやって、こういう食べ物とこれくらいの休息を取れば、こういう成果が出るはずだ」ということを無意識に計算し、それを武道・格闘技の上達の過程にそっくり当てはめようとします。
中にはこの「計算」ができることが長じて「計算とは常に正しいものであり、それを駆使できるオレの言うことも絶対に正しい」という、鼻持ちならない自信を持つヤツもいます。これまた、理系脳独特?の考え方といえましょう。
しかし、理系脳諸君のその考え方は、重大なことが完璧に抜け落ちています。
それは「武道・格闘技の稽古をするのは、計算通り正確に動いてくれる集積回路や機械ではなく、生身の人間様だ」ということ。
人間の身体は遺伝・個体差が大きいため、体力・筋力などの性能に相当なバラツキがあります。また精神的なものについても、何かのきっかけで信じられないほど頑張ることもあれば、信じられないほど懈怠・堕落することもあります。
さらに言えば、武道・格闘技は人間を相手にするものであり、その相手の体格・体力・精神力もまた、一種一様のものではありません。
要するに武道・格闘技は「何かの法則に基づいて計算する」ということ自体ができないものなのです。
しかし、自らの認識自体が間違っていることに気づかない理系脳は、思うように上達しないという事実に対し、「こんなに計算したのに成果が思うように出ないのは、指導者の指導が悪い」「オレにはこの武道は向いていない」などと安易に考え、簡単に道場を後にします。
この「自分の計算通りにいかないと、すぐ他罰的な言動に出る」というのも、理系脳の特徴のひとつといえましょう(理由は後述)。
なお、そうした輩は「自分の計算」が武道・格闘技に比べて比較的反映されやすいウェイトトレーニングに逃げがち(ワタクシの師匠はこれを「肉に逃げる」と呼んでいました)ですが、ウェイトだって、ある程度までは「計算」で何とかなりますが、それ以上を目指すのであれば、理屈や計算を越えた理不尽なトレーニングが必要になりますから、これですら、計算でなんとかなるような甘いもんじゃありません。
そしてすべてに窮した理系脳は、運動自体を止めちゃう…ワタクシはこんな光景を、幾度となく見ました。
ワタクシが「武道・格闘技には文系脳が必要」と説いた理由はまさにこのあたりにあります。
理系脳にない文系脳の長所は2つ。
ひとつは「理論や理屈じゃ理解できないことを、自分の中で折り合いをつけ、納得させることができる」こと。
いまひとつは「物事の良し悪しを判別し、自らの行動に方向性を持たせることができるようになる」ことです。
ひとつめの解説について。
武道・格闘技の稽古ははっきり言いまして、理不尽・不可解・不明確なことの繰り返しです。
「体格が良ければ絶対に勝つ」「筋力が多ければ絶対に勝つ」なんて単純なことはありえませんし、「稽古量が多ければ勝つ」という、一見正しそうなことだって、「絶対」じゃありません。
負けに不思議の負けはなくても、勝ちには不思議の勝ちがある。
上達しないことに不思議はなくても、上達するときには、なぜか不思議な縁がある。
武道・格闘技とは、そんなことの繰り返しです。
公理・法則性を無視した考えができる文系脳は「これはそういうものなのだ」という、悟りに近い気持ちを自らの中に持つことを許せますから、そうした理不尽・不可解に対しても、強い気持ちで向かい合うことができます。
しかし理系脳は、何に対しても「絶対」を求めたがりますから、そうした事実が全く理解できませんし、そういう事実が存在すること自体が「許しがたいこと」と映るのです。
ふたつめの「物事の良し悪しを判断し、自らの行動に方向性を持たせることができる」について。
かつてナチスドイツは優秀な科学者をたくさん持っていましたが、それがドイツを幸福にしたかといえば、皆「NO」というでしょう。
要するに理系脳は、計算こそ得意であっても「その計算をどう使うか」ということにまで考えが及んでおらず、結果、自らの計算結果だけを暴走させる≒最終的に何も身につかない、という結果に終わることが多いのです。
「いや、旧制帝大や早慶レベルの大学では、理系の学生がスポーツでも大活躍してるじゃないか」という向きもあると思います。
しかし、そのレベルの学力を持つ学生さんともなれば、専攻課程が理系というだけであって、そんじょそこらの大学文系では相手にならないくらいの文系アタマも併せ持っているもスーパーな人間。だからそうしたヒトは、何でもできて当たり前。今回の議論の俎上に挙げちゃダメです。
ちなみにワタクシの話に出てくる「理系脳」は、学歴レベルで言いますと…三流どころの大学卒(または中退)、高等専門学校の落ちこぼれ、低レベルな普通科高校卒…といった面々です。
(ちなみに商業・工業高校出身の方はなぜか、行儀が良くて熱心な「優秀道場生」ばかりだったので、今回の「理系脳」議論からは除いています)
ワタクシがこれまでの修行の過程ですれ違ってきたこれらの方々の中で、きちんと帯に黒い色がつくまで稽古を全うした人間は…ほとんど存在しませんでした。
幕末の大思想家・吉田松陰先生は幼少期から大天才の誉れ高く、若年にして古今の学問をほぼ全て修めていました。おそらく「ただの学者」として生きていれば、「長州の誇る大賢人」みたいなポジションで天寿を全うしたはずです。
しかし実際には、アメリカ渡航を企図して入牢、全国の賢人を求めて西東に奔走、見かねた家族が長州藩に「なんとか放浪を止めてくれ」との願いから特別措置?の入牢、最終的には架空の老中暗殺計画を自白して死罪、という、学者先生とは思えない狂気に満ちた短い生涯を終えています。
しかしそれらの行動は、松陰先生が本当に気が狂ったゆえのものではありません。
学問に次ぐ学問を修めた先生が最後に到達した境地こそ「学問を生かすとは、大きなことを為すとは、こうしたいっけん、狂ったように見える行動こそが必要なんだ!」ということを自ら弟子たちに示しただけであり、あの名言「諸君、狂いたまえ」に繋がるわけです。
武道・格闘技の習得にも、松陰先生が示したような一種の「狂気」が必要であることは論を俟ちません。
その「狂気」は、理系アタマでは絶対に理解できません。「狂気」は文系頭でのみ涵養できる、ということでオチをつけたいと思います。
師匠の言うことを何も異論をはさまずに守る、師匠の動きをしっかり見て学ぶということに「理屈」は不要であり、その点がわからない、理解できない、我慢ならないという者に武道修行はムリですね(;^ω^)。
「レベルの低い理系」脳を持つ人間は不遜かつ自分大好きなヤツが多いため、武道のみならず、一般社会でもしばしそうした勘違いに起因する過ちを犯しがちですが、弊社では「高専の落ちこぼれ」がそれをよくやります。
またよろしくお願いいたします!