現在活躍中の武道家・格闘家のなかで、ワタクシが常に尊敬措く能わざる名人として私淑しておりますのは、中井祐樹先生。
中井先生は著書で「格闘技は人生を肯定する」と語っておられ、けだし名言であると感心しておりますが、今回は「格闘技は人生を肯定する」の意味を、中井先生とはちょっと違った観点で切り取ってみたいと思います。
ひとくちに武道・格闘技といいましても、それはファイトスタイルに応じて実に様々なものが存在します。
たとえばひとくちに「組技格闘技」などと言いましても、五輪種目であるアマレスや柔道を筆頭に、国際的な認知度があるところでいえばサンボ・BJJ(ブラジリアン柔術)・相撲、日本国内の有名どころですとSAW(サブミッション・アーツ・レスリング)・コンバットレスリング…などなど、それはそれは書ききれないほどのファイトスタイルと、練習機序が存在しています。
この、武道・格闘技業界における「多数の違うモノが、共食いをせずになんとなく共生している状態」こそが、「人生の肯定」につながっているとワタクシは思ったりするわけです。
と、ここまでご一読された方は、あまりのぶっ飛んだ展開に「????」とクビをひねったと思いますので、順次ご説明させていただきます。
弊ブログをお読みの方は、「一万時間の法則」なるものをご存じのことと思います。
要するに「一万時間の努力をしたら、必ず一流になれる。だから努力する時間を惜しむな」というアレです。
この法則はアメリカの著述家・マルコム・グラッドウェルが「天才!成功する人々の法則」という著書が出典で、以後、この本の主張を子引き、孫引きした本が世界中で広くバラまかれるに至りました。
しかし、出展の「天才!…」で「一万時間の努力の結果成功したヒト」として紹介されているのは一部バイオリニスト集団、ビートルズ、ビル・ゲイツといった程度であり、一万時間の努力をすれば、どういった機序で「成功」するのかというエビデンスは一切示されていません。実はそれどころか近年の研究では、「努力の時間さえかければ、なんでもうまくいく」という考え方は真っ向から否定を受けています。
プリンストン大学の研究によりますと、「練習量の多少」によってパフォーマンスの差を説明できる度合は大きく異なる、とされており、こんな状態だそうです。
【練習量の多少によって、パフォーマンスの差を説明できるパーセンテージ】
ビデオゲーム26%、楽器21%、スポーツ18% 、教育4%、知的専門職1%以下
これを受け、同大学研究チームは「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」と結論付けています。
要するに、「人には向き不向きがあり、不向きな分野でいくら努力しても、全てムダに終わる」ということです。
これをふまえたうえで、ワタクシ的「武道・格闘技が人生を肯定する」理由をお話しします。
ほかのスポーツになくて、武道・格闘技にあるもの。それは先述した「多様性」。
最初は打撃系格闘技を志向したけど、そこで挫折して組技に転向した。アマレスをかなりのレベルまでやっていたけど、競技選手クラスからは脱落したので総合に鞍替えした。柔道やってたけど、いろいろあって打撃系に転向した(←老骨武道オヤジさまやワタクシなど(;^ω^))…といった具合に、武道・格闘技はその人の要・不要、あるいは向き・不向き、腕の高低のいずれについても、様々な方向に鞍替えすることが可能です。
また、異なるファイトスタイルのものを同時並行で習得することも可能であり、この点、武道・格闘技は他のスポーツに比べ「自分がもっともうまくなりやすいもの」を、着手からかなり早い時期に認識することが可能であり、「不向きな分野でムダな時間を浪費する」懸念が少ないといえます。
また、武道・格闘技によって「自分に向いているものを素早く見つける」ことができるようになることは、「自分の勝ち目」を認識するクセがつくことにつながります。
それはいわゆる「目端が利く」とか「戦機を見極める」ことにつながり、それは当然、人生を良い方向に導いてくれます。
これは戦術学のごく基礎の話ですが、攻撃機動の方式には「迂回」「包囲」「突破」の3つがあります。
「できないことにムダな努力」をつぎ込む人の行動は、自部隊の人数・装備・練度も顧みずに「突破」をしようとしている部隊の如し。こういう人の末路は「小敵の堅なるは大敵の虜となる」(孫子・謀攻篇)しかありません。
「自分に向いているものを素早く見極める」ことができるようになれば、「人生の攻勢」選択肢の中に「迂回」と「包囲」が加わります。苦手な敵とは戦いを避け、決戦の場所を自らが選択する「迂回」、敵の虚を突いて側面や背面を攻め、相手を自分の有利な手で締め上げる「包囲」…ということができるようになるわけですね。
これは人生を「突破」の一点張りでしか送ることができないヒトに対する、大きなアドバンテージとなるはずです。
…と長々お話ししましたが、実は今まで書いたことは、ワタクシが武道・格闘技によって人生を救われた過程をそのまんま書いただけだったりするんですよね、これが(;^ω^)。
おかげさまでワタクシは、悪い「公正世界仮説」(頑張っている人は必ず報われる)というバイアスにはまらなくてすみました。
話は少し変わりまして、様々な武道・格闘技において、ときおり「●●界の大同団結!」なーんてフレーズが専門誌をにぎわせることがあります。
しかしワタクシは「そんな無粋なこと、やめとけ」といつも思っています。
その理由の一端は今お話ししたとおりですが、じつは今ひとつ、これまた哲学の観点から「そんなことしちゃダメだ」という理由がございます。
それは何かと尋ねたら…あ、お時間が来ました。また次の稿で(;^ω^)。
※ 本稿における「一万時間の法則」及びプリンストン大学の研究については、「武器になる哲学」(山口周 KADOKAWA)を参照しました。
中井先生は著書で「格闘技は人生を肯定する」と語っておられ、けだし名言であると感心しておりますが、今回は「格闘技は人生を肯定する」の意味を、中井先生とはちょっと違った観点で切り取ってみたいと思います。
ひとくちに武道・格闘技といいましても、それはファイトスタイルに応じて実に様々なものが存在します。
たとえばひとくちに「組技格闘技」などと言いましても、五輪種目であるアマレスや柔道を筆頭に、国際的な認知度があるところでいえばサンボ・BJJ(ブラジリアン柔術)・相撲、日本国内の有名どころですとSAW(サブミッション・アーツ・レスリング)・コンバットレスリング…などなど、それはそれは書ききれないほどのファイトスタイルと、練習機序が存在しています。
この、武道・格闘技業界における「多数の違うモノが、共食いをせずになんとなく共生している状態」こそが、「人生の肯定」につながっているとワタクシは思ったりするわけです。
と、ここまでご一読された方は、あまりのぶっ飛んだ展開に「????」とクビをひねったと思いますので、順次ご説明させていただきます。
弊ブログをお読みの方は、「一万時間の法則」なるものをご存じのことと思います。
要するに「一万時間の努力をしたら、必ず一流になれる。だから努力する時間を惜しむな」というアレです。
この法則はアメリカの著述家・マルコム・グラッドウェルが「天才!成功する人々の法則」という著書が出典で、以後、この本の主張を子引き、孫引きした本が世界中で広くバラまかれるに至りました。
しかし、出展の「天才!…」で「一万時間の努力の結果成功したヒト」として紹介されているのは一部バイオリニスト集団、ビートルズ、ビル・ゲイツといった程度であり、一万時間の努力をすれば、どういった機序で「成功」するのかというエビデンスは一切示されていません。実はそれどころか近年の研究では、「努力の時間さえかければ、なんでもうまくいく」という考え方は真っ向から否定を受けています。
プリンストン大学の研究によりますと、「練習量の多少」によってパフォーマンスの差を説明できる度合は大きく異なる、とされており、こんな状態だそうです。
【練習量の多少によって、パフォーマンスの差を説明できるパーセンテージ】
ビデオゲーム26%、楽器21%、スポーツ18% 、教育4%、知的専門職1%以下
これを受け、同大学研究チームは「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」と結論付けています。
要するに、「人には向き不向きがあり、不向きな分野でいくら努力しても、全てムダに終わる」ということです。
これをふまえたうえで、ワタクシ的「武道・格闘技が人生を肯定する」理由をお話しします。
ほかのスポーツになくて、武道・格闘技にあるもの。それは先述した「多様性」。
最初は打撃系格闘技を志向したけど、そこで挫折して組技に転向した。アマレスをかなりのレベルまでやっていたけど、競技選手クラスからは脱落したので総合に鞍替えした。柔道やってたけど、いろいろあって打撃系に転向した(←老骨武道オヤジさまやワタクシなど(;^ω^))…といった具合に、武道・格闘技はその人の要・不要、あるいは向き・不向き、腕の高低のいずれについても、様々な方向に鞍替えすることが可能です。
また、異なるファイトスタイルのものを同時並行で習得することも可能であり、この点、武道・格闘技は他のスポーツに比べ「自分がもっともうまくなりやすいもの」を、着手からかなり早い時期に認識することが可能であり、「不向きな分野でムダな時間を浪費する」懸念が少ないといえます。
また、武道・格闘技によって「自分に向いているものを素早く見つける」ことができるようになることは、「自分の勝ち目」を認識するクセがつくことにつながります。
それはいわゆる「目端が利く」とか「戦機を見極める」ことにつながり、それは当然、人生を良い方向に導いてくれます。
これは戦術学のごく基礎の話ですが、攻撃機動の方式には「迂回」「包囲」「突破」の3つがあります。
「できないことにムダな努力」をつぎ込む人の行動は、自部隊の人数・装備・練度も顧みずに「突破」をしようとしている部隊の如し。こういう人の末路は「小敵の堅なるは大敵の虜となる」(孫子・謀攻篇)しかありません。
「自分に向いているものを素早く見極める」ことができるようになれば、「人生の攻勢」選択肢の中に「迂回」と「包囲」が加わります。苦手な敵とは戦いを避け、決戦の場所を自らが選択する「迂回」、敵の虚を突いて側面や背面を攻め、相手を自分の有利な手で締め上げる「包囲」…ということができるようになるわけですね。
これは人生を「突破」の一点張りでしか送ることができないヒトに対する、大きなアドバンテージとなるはずです。
…と長々お話ししましたが、実は今まで書いたことは、ワタクシが武道・格闘技によって人生を救われた過程をそのまんま書いただけだったりするんですよね、これが(;^ω^)。
おかげさまでワタクシは、悪い「公正世界仮説」(頑張っている人は必ず報われる)というバイアスにはまらなくてすみました。
話は少し変わりまして、様々な武道・格闘技において、ときおり「●●界の大同団結!」なーんてフレーズが専門誌をにぎわせることがあります。
しかしワタクシは「そんな無粋なこと、やめとけ」といつも思っています。
その理由の一端は今お話ししたとおりですが、じつは今ひとつ、これまた哲学の観点から「そんなことしちゃダメだ」という理由がございます。
それは何かと尋ねたら…あ、お時間が来ました。また次の稿で(;^ω^)。
※ 本稿における「一万時間の法則」及びプリンストン大学の研究については、「武器になる哲学」(山口周 KADOKAWA)を参照しました。
中井先生には2度ほどセミナーで稽古をつけて頂きました。
中井先生は世間的には「ブラジリアン柔術の達人」という位置づけですが、じつは「組技全体の名人」というべき方。
ブラジリアン柔術に対するワタクシの思いは「好きでも嫌いでもない」。
とりあえず現在、組技格闘技をやる人の共通言語となっているから、多少はできるようにはしていますが、「抑え込みがない」「小難しいテクニックをもてあそんでいるだけで喜んでいる阿呆がいっぱいいる」という点が、好きになれない理由です。
そういった意味で、ワタクシにとってのBJJとは「努力する意味のない、合わない格闘技」といっていいと思います。
中井先生は、そういった現代BJJの在り方を懸念しておられ、セミナーの時にはワタクシ憧れの高専柔道テクを惜しみなく教えてくださった…以後、中井先生の大ファンとなったわけです(;^ω^)。
老骨武道オヤジ様の「本物を見極めろ!」には、全面的に賛同するところでございます。
またよろしくお願いいたします。