徳島電友会 会員情報ひろば

徳島電友会会員の「耳寄りな」「お得な」情報ひろばです。

中島 守さん が徳島新聞「ピープル」コーナーで紹介されました。

2020-01-30 07:30:18 | 会員ひろば

1月28日の徳島新聞朝刊「ピープル」コーナーに 中島 守 さんが紹介されました。

   1月11日の徳島新聞朝刊にも「わなりんピック」での総合優勝
   記事が掲載され、電友会ブログの「会員情報ひろば」でも紹介
   されましたが、今回は

     「わな猟で獣駆除貢献」
   で掲載されました。                  

  令和2年1月28日徳島新聞 記事
  

中島さんは、2007年3月にGooブログを書き始めてから365日欠かさず
(入院を除き)ブログを更新しています。
罠での猪猟を含め、愛犬等々への想いが「書き綴られて」いますので
見てあげて下さい。

中島さんのブログ
 中島鳥山の猟(漁)日記
   https://blog.goo.ne.jp/cyouzann

 


人形作品展

2020-01-16 22:13:17 | 会員ひろば

池内和美さんから情報をいただきました。
NTT―OGが人形作品展をしているということでした。
行ってみました。
徳島市のふれあい健康館です。
入り口を入るとホール中央に素晴らしい人形が‼️

美人の女性二人が暖かく迎えてくれました。
和紙人形、布人形、刺繍絵画、油絵等どれもみごとな作品ばかりです。

作品を作った本人は不在でしたが、本人の家族の方でした。

少し話を伺ってみました。
「母は、昔から布と針を持つのが好きでした。今まで一度も展示会、作品展をしたことがなく、私たちが母の代わりに作品展をしてあげようと思い実施しました。私たちも初めての展示会で展示の方法等いろいろ苦労しました。展示会の開催をしって母が大変喜んでくれました。本当に展示会をしてよかったと思います。」

家族の池田勝さんです。

世に生まれ、初めて歩けるようになった時、結婚をむかえたとき・・・・・・振りかえると、いつも支えてくれていたのは「お母さん」ではありませんか?
それだけではありません。大人になって、初めて気づくことも。思わずお母さんへ感謝の気持ちを伝えたくなることがありますね。私の母はもういませんが、ちょっと胸が熱くなりました。
人形の素晴らしさと、家族の母への想いに感動した人形の展示会でした。このような家族をもってお母さんは幸せですね。

人形展示会は、
令和2年1月14日~15日まで徳島市の健康ふれあい館で行われました。
人形制作者は、NTT OGの池田ミチ子さん(96才)です。
素晴らしい家族でした。池内和美さん感動をありがとうございました。

池田ミチ子さんは会員ではないようですが、池内和美さんから頂いた感動を共有します。

 

 


「わなりんピック」で総合優勝

2020-01-15 10:47:25 | 会員ひろば

1月11日の徳島新聞朝刊に徳島電友会会員の中島守さんが徳島県が昨年11月~12月に実施した、わな猟によるイノシシとニホンジカの捕獲頭数などを競う「わなりんピック」で総合優勝したとの記事が掲載されていました。県の狩猟者のわな猟師対象に有るそうで狩猟解禁後1ヶ月で捕獲したイノシシとニホンジカの数を競うそうです。罠猟は12年前からおこなっているそうで対象獲物との知恵くらべのように思えます。中島さんは太公望も得意であり多才な才能を開花させ充実した毎日を送っています。

1月11日の徳島新聞朝刊

中島さんが捕獲した獲物の一部

 

<中島さんの想い>

罠猟を始めて12年目だが、過去の猟期で大きなイノシシを捕獲した数は県下一だと自負しているが他の猟師の腕を知りたくて応募したものです。

 

これからも色々な事を嗜好され活躍することを願っています。おめでとうございます。


徳島県戦没者記念館-あしたへ-

2020-01-13 18:44:01 | 会員ひろば

 徳島電友会の濵 順子さんが徳島県遺族会の副会長・女性部長をしていることを知り、遺族会が語り部事業をしているとのことでお邪魔させていただきました。
今回で64回目となるそうです。

第64回語り部事業
 坂千代 克彦 氏(75)   (海部郡牟岐町)
令和2年1月11日(土) 13時30分~14時30分 
「ミャンマーで戦没した父 ~家族の戦後・慰霊の旅~」

  坂千代さんの父は、昭和15年に出征され、終戦間際の昭和20年5月にミャンマーで戦没されました。残された母の戦後の御苦労、祖父・祖母の思い、そして氏の慰霊と英霊顕彰の軌跡についてお話いただきまた。
 平成27年にはじめてミャンマーを訪れ70才ではじめて「おとうちゃん」叫んで泣いた話などあっという間の一時間でした。
 

最後に「故郷」を合唱したときは、白内障でもないのに曇りガラス越しに見ているようで歌詞が見えなくなりました。
 この一時間は貴重な体験をさせていただきました。

「故郷(ふるさと)」

うさぎ 追ひし 彼の山
小鮒 釣りし 彼の川
夢は 今も めぐりて 
忘れ がたき 故郷 

如何に います 父母 
つつが 無しや 友がき
雨に 風に つけても
思ひ 出づる 故郷

志を 果たして
いつの日にか 歸らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

すばらしい歌でした。人生で一番の歌でした。

次回は、令和2年2月8日(土) 13時30分~14時30分 
安島 太佳由 氏(60)   (東京都)
「戦跡が語る戦争」です。
 

毎月第二土曜日13時30分から語り部事業を行っています。是非行ってみてはいかがでしょうか。


 徳島県遺族会は、「大東亜戦争」戦没者遺族の全国組織の一員として昭和22年2月遺族更生会として結成され、昭和26年12月に徳島県遺族会(日本遺族会徳島県支部)として発足、昭和37年4月19日財団法人として認可されました。さらに平成25年4月1日付けで、一般財団法人の移行認可を受けました。
 県下各郡市町村に支部があり、遺族間の交流を図ると共に、戦没者の慰霊顕彰・遺族の福祉向上を目的に、二度と戦争の被害者を作らないよう、真の世界平和を目指し活動しています。


 「県戦没者記念館」は徳島市雑賀町の護国神社内にあります。県出身の戦没者の遺影や遺品や被害を紹介するパネルなどを展示しています。戦後75年の今も戦争や平和のあり方を後世に投げかけています。入場は無料です。

 

次に濵 順子さんが語り部を行ったときの内容を紹介します。


●第 36回語り部事業 9月9日(土)
「父への想い」濵 順子 さん

 「私の父は沖縄で戦死し、戦争によって私の人生も大 き く 変 わ り ま した。戦後は食べ物も着る物も何も無い、貧しくて辛い時代を 経験しました。
 私は、太平洋戦争の始まる二か月前に大阪 市の阿波座という街で生まれました。私がー才になった頃、製本会社に勤めていた父は、愛知県豊川市の海軍工廠へ徴用になったため、私はこの記念館 にある遺影の父の顔しか知りません。
 その後召集令状が来て一時帰宅し、出征したそうです。その半年後に内地を離れたとの便りけがあり、大阪も日増しに戦況が激しくなって危ないからと、父方の祖父が迎えに来てくれて今の海陽町の父の実家に疎開してきました。
 母は話すのが辛かったのか、父の事は何も聞かせてくれませんでしたが、後に私が大きくなってから叔母たちが父の話をしてくれたのは、とても子煩悩で殊の外私に愛情をそそぎ、目の中に入れても痛くないという程の可愛がりようだったそうです。そんな父から昭和 20年の旧正月頃「子供の事を思い出す、子供の写真を肌身離さず持っている」というハガキが届きそれが最後の便りとなったそうです。
 父の実家に疎開した私達は、祖父と父の末の弟と祖母は早く に亡くなっており後添えの義理の祖母との同居でした、戦後の苦しい食糧事情 の中で日を追うごとに祖母の態度が厳しくなり、 私にまで辛く当たるので、母も耐えられなくなり自分の実家に相談し、姉の借家に引っ越しました。二人だけの生活が始まった後、父の戦死の公報が届きました。
 母はその後、生きるために死に物狂いで働いて私を育ててくれました。 しっかり者の母に、私は子供の頃よく叱られました 。 淋しい時、誰もいない所へ行き心の中で「お父ちゃーん」と叫んで思い切り泣きました。いつも私のそばで優しく見守っていてくれる父を強く感じていたので、どんなに辛いことや悲しいことがあっても乗り越えられました。 私が父の眠る沖縄へ初めて行ったのは、今から12年前の戦後60年の節目の年に「遺児慰霊友好親善事業」があることを知り訪問団として参加しました。二日間、それぞれの父の戦没地近くの慰霊塔で慰霊祭を行いました。故郷の品々や父の好物を お供えし、事前に作成してきた「父に語りかける追悼文」を読んで思いの丈を語りましたが、感動し、涙で声が詰まりなかなか読めませんでした。全員で「お父さーん」と初めて大声で呼び掛けては泣き、もうしばらく涙が出ないのではないかと思うほど 泣いた二日間でした。また、沖縄の方のご好意で、父の亡くなったであろう安謝という場所へ連れて行ってもらい、空き地をお借りしてローソクと線香を立て父に呼びかけお祈りしかけたその時でした、晴天にもかかわらず、にわかに雨が降り出し直ぐに止みました 。 これは偶然かもしれませんが、私には待っていた父 の嬉し涙のように思われました。
 この訪問団に参加させて頂き、長年胸につかえていた気持ち に区切りが付いた事と兄弟のような仲間との素晴らしい出会い があったことに感謝しています。訪問団をきっかけに出会った私達は、沖縄の方言で「イチャリバチョーデー」といい、その意味は「出会えば皆兄弟」という言葉から「イチャリバ会」と名付け てその後も毎年沖縄に集まっています。
 最後になりましたが、語り部のお話をいただき、新ためて昔のことを想い出したり、亡くなった母の残した物をもう一度見直したり、今年96歳になる母の姉弟でただ一人残っている叔母に話を聞きに行ったりしました。
 また私の孫も今年 5月に修学旅行で沖縄へ行きました。「平和の礎でひいじいちゃんの名前ちゃんと見つけてお参りしてきたよ、 ひいじいちゃんは凄いなぁ」と言ってくれました。優しい父だからきっと天国で大喜びしてることだとおもいます。いつか家 族全員で沖縄へ慰霊に行けるように頑張りたいと思います。」

 

戦没者を見送った家族像

これを読んだ時も白内障になってしまった。


 日本全国では240万の戦没者がいます。なぜ戦争をするのか?すごく当然な質問です。でもその答えは簡単なものではないと思います。今日は戦争と平和の意味について考えさせられた一日でした。
濵さんありがとうございました。また、参加させてもらいます。