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徳島県戦没者記念館-あしたへ-

2020-01-13 18:44:01 | 会員ひろば

 徳島電友会の濵 順子さんが徳島県遺族会の副会長・女性部長をしていることを知り、遺族会が語り部事業をしているとのことでお邪魔させていただきました。
今回で64回目となるそうです。

第64回語り部事業
 坂千代 克彦 氏(75)   (海部郡牟岐町)
令和2年1月11日(土) 13時30分~14時30分 
「ミャンマーで戦没した父 ~家族の戦後・慰霊の旅~」

  坂千代さんの父は、昭和15年に出征され、終戦間際の昭和20年5月にミャンマーで戦没されました。残された母の戦後の御苦労、祖父・祖母の思い、そして氏の慰霊と英霊顕彰の軌跡についてお話いただきまた。
 平成27年にはじめてミャンマーを訪れ70才ではじめて「おとうちゃん」叫んで泣いた話などあっという間の一時間でした。
 

最後に「故郷」を合唱したときは、白内障でもないのに曇りガラス越しに見ているようで歌詞が見えなくなりました。
 この一時間は貴重な体験をさせていただきました。

「故郷(ふるさと)」

うさぎ 追ひし 彼の山
小鮒 釣りし 彼の川
夢は 今も めぐりて 
忘れ がたき 故郷 

如何に います 父母 
つつが 無しや 友がき
雨に 風に つけても
思ひ 出づる 故郷

志を 果たして
いつの日にか 歸らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

すばらしい歌でした。人生で一番の歌でした。

次回は、令和2年2月8日(土) 13時30分~14時30分 
安島 太佳由 氏(60)   (東京都)
「戦跡が語る戦争」です。
 

毎月第二土曜日13時30分から語り部事業を行っています。是非行ってみてはいかがでしょうか。


 徳島県遺族会は、「大東亜戦争」戦没者遺族の全国組織の一員として昭和22年2月遺族更生会として結成され、昭和26年12月に徳島県遺族会(日本遺族会徳島県支部)として発足、昭和37年4月19日財団法人として認可されました。さらに平成25年4月1日付けで、一般財団法人の移行認可を受けました。
 県下各郡市町村に支部があり、遺族間の交流を図ると共に、戦没者の慰霊顕彰・遺族の福祉向上を目的に、二度と戦争の被害者を作らないよう、真の世界平和を目指し活動しています。


 「県戦没者記念館」は徳島市雑賀町の護国神社内にあります。県出身の戦没者の遺影や遺品や被害を紹介するパネルなどを展示しています。戦後75年の今も戦争や平和のあり方を後世に投げかけています。入場は無料です。

 

次に濵 順子さんが語り部を行ったときの内容を紹介します。


●第 36回語り部事業 9月9日(土)
「父への想い」濵 順子 さん

 「私の父は沖縄で戦死し、戦争によって私の人生も大 き く 変 わ り ま した。戦後は食べ物も着る物も何も無い、貧しくて辛い時代を 経験しました。
 私は、太平洋戦争の始まる二か月前に大阪 市の阿波座という街で生まれました。私がー才になった頃、製本会社に勤めていた父は、愛知県豊川市の海軍工廠へ徴用になったため、私はこの記念館 にある遺影の父の顔しか知りません。
 その後召集令状が来て一時帰宅し、出征したそうです。その半年後に内地を離れたとの便りけがあり、大阪も日増しに戦況が激しくなって危ないからと、父方の祖父が迎えに来てくれて今の海陽町の父の実家に疎開してきました。
 母は話すのが辛かったのか、父の事は何も聞かせてくれませんでしたが、後に私が大きくなってから叔母たちが父の話をしてくれたのは、とても子煩悩で殊の外私に愛情をそそぎ、目の中に入れても痛くないという程の可愛がりようだったそうです。そんな父から昭和 20年の旧正月頃「子供の事を思い出す、子供の写真を肌身離さず持っている」というハガキが届きそれが最後の便りとなったそうです。
 父の実家に疎開した私達は、祖父と父の末の弟と祖母は早く に亡くなっており後添えの義理の祖母との同居でした、戦後の苦しい食糧事情 の中で日を追うごとに祖母の態度が厳しくなり、 私にまで辛く当たるので、母も耐えられなくなり自分の実家に相談し、姉の借家に引っ越しました。二人だけの生活が始まった後、父の戦死の公報が届きました。
 母はその後、生きるために死に物狂いで働いて私を育ててくれました。 しっかり者の母に、私は子供の頃よく叱られました 。 淋しい時、誰もいない所へ行き心の中で「お父ちゃーん」と叫んで思い切り泣きました。いつも私のそばで優しく見守っていてくれる父を強く感じていたので、どんなに辛いことや悲しいことがあっても乗り越えられました。 私が父の眠る沖縄へ初めて行ったのは、今から12年前の戦後60年の節目の年に「遺児慰霊友好親善事業」があることを知り訪問団として参加しました。二日間、それぞれの父の戦没地近くの慰霊塔で慰霊祭を行いました。故郷の品々や父の好物を お供えし、事前に作成してきた「父に語りかける追悼文」を読んで思いの丈を語りましたが、感動し、涙で声が詰まりなかなか読めませんでした。全員で「お父さーん」と初めて大声で呼び掛けては泣き、もうしばらく涙が出ないのではないかと思うほど 泣いた二日間でした。また、沖縄の方のご好意で、父の亡くなったであろう安謝という場所へ連れて行ってもらい、空き地をお借りしてローソクと線香を立て父に呼びかけお祈りしかけたその時でした、晴天にもかかわらず、にわかに雨が降り出し直ぐに止みました 。 これは偶然かもしれませんが、私には待っていた父 の嬉し涙のように思われました。
 この訪問団に参加させて頂き、長年胸につかえていた気持ち に区切りが付いた事と兄弟のような仲間との素晴らしい出会い があったことに感謝しています。訪問団をきっかけに出会った私達は、沖縄の方言で「イチャリバチョーデー」といい、その意味は「出会えば皆兄弟」という言葉から「イチャリバ会」と名付け てその後も毎年沖縄に集まっています。
 最後になりましたが、語り部のお話をいただき、新ためて昔のことを想い出したり、亡くなった母の残した物をもう一度見直したり、今年96歳になる母の姉弟でただ一人残っている叔母に話を聞きに行ったりしました。
 また私の孫も今年 5月に修学旅行で沖縄へ行きました。「平和の礎でひいじいちゃんの名前ちゃんと見つけてお参りしてきたよ、 ひいじいちゃんは凄いなぁ」と言ってくれました。優しい父だからきっと天国で大喜びしてることだとおもいます。いつか家 族全員で沖縄へ慰霊に行けるように頑張りたいと思います。」

 

戦没者を見送った家族像

これを読んだ時も白内障になってしまった。


 日本全国では240万の戦没者がいます。なぜ戦争をするのか?すごく当然な質問です。でもその答えは簡単なものではないと思います。今日は戦争と平和の意味について考えさせられた一日でした。
濵さんありがとうございました。また、参加させてもらいます。