日々の雑感をお話しする(時々動画)ブログです。

仕事漬けの毎日なので、仕事の話は多いですが、色々話します。

何で耐える?何で離婚しない?

2023-06-22 08:34:02 | 日記

何で?何で離婚しないで我慢しているんだ?
と、俺のブログ読んで思ってる人が多いんじゃないか。
人並みに稼いで来て、家の隅の部屋へ1人追いやられて、怒られて、文句言われて、服は捨てられて、自分で買ったら収納が無い部屋で山積みし、40年近く連れそった亭主から40年前に贈られた婚約指輪を処分しようとして(売ったのかどうかわからん。)、心を傷つけられて、何で我慢しているのかと。
俺にもわからないけど、度胸がないんだよ。
約20年前、自分は病気であると自覚するまで、もう自分で消えてしまおうと考えていた。でも、子供が社会人になるまでそれはダメだとブレーキがかかっていた。そのもう少しで終わるという時に、息子の障害がわかった。自分はいいから息子はせめて生きていって欲しかった。最終的に、障害者支援センターも、心理療法士も、医師も、大学の先生もだれも望む力とはなってくれないことがわかった。親である俺が、生きていく知恵を持たせるための力を出すしかないとわかった。そして、それを実行した。もう、何とかなるんじゃないかというレベルになった。と思う。
長かった。長い闘いの日々だった。
その間にも、女房は自分の好きなことをやり、俺には事務的に接した。本人に「お前、俺の病気には全然向き合ってくれないな。」そう言ったことがある。
「ちゃんと向き合ってるじゃない」
「いや、事務的にしか俺には感じられない。」
「そうかもしれないね。」
「もう、好きなことやって生きて行きたい」
俺にはもう言葉はなかった。
俺の最後はどうしよう?と考えながら今日まで来た。
最後というのは人生の最後だよ。
もう、気力は無かった。

今朝、出発時。今休憩中。


日常点検を地道に進める

2023-06-20 18:00:41 | 日記

今日は4件点検に回ってきた。
ここは、電気の点検よりも草むしりが大変だ。

草ぼうぼうで、しかし、除草剤を使うほどじゃない。
地道に手で草を抜いていく。
草を放置しとくと大変なことが起こることがある。
ハチの巣が出来たり、ヘビが来たり。
せめて変電所の周りはきれいにしておきたい。


UGS(アンダーグラウンドガススイッチ)が付いていないところは6600ボルトの引き込み点に、こんなピラージスコンがついているところがある。
もう数少ないが。
これは、白い陶器6.9KV400Aと書いてあるやつ。これを3本抜いて停電させるんだが、手順を間違えるとアーク(銅が霧状に溶け火花とともに飛んでくる)が発生し、感電事故をおこす。当然に停電する。周りに停電が波及する波及事故となる。6600ボルトに直接触っても大丈夫な高圧絶縁手袋をして引っこ抜く。入れるときは3本目を近づけるとバチバチと火花が飛び始めるので、ビビらずに一気に入れる様にする。三相交流で三本線なのだが、二本入れた時点ではまだ単相交流の状態だ。なぜかというと、三相というのは3本のサインカーブを描く正弦波が120°ずつずれて入ってくる。2本入れただけでは、そのベクトル和が今かかっている電圧だから、120°ずれた二本のサインカーブのベクトル和は単相の3810ボルトになる。3810ボルトの1本のサインカーブになる。って、こんな講釈書いても仕方ねえよな。
息子が俺がこれを操作しているのを見て、「本当に感電して死んでしまうかと思った。」とビビった。
入り切りするのは年次点検の時だけ。


非常用発電機の試運転。





これも毎月運転していないとバッテリーが上がってしまったり、燃料噴射装置の中の燃料が劣化し、エンジンがかからなくなってしまう。
非常用だから、非常時にちゃんと動くようにメンテナンスはきちんとしておくのは、俺たちの義務だ。故障したら速やかに修理をしてもらう。

ともすれば、「保護継電器」の試験やその「試験装置」とか、機材や試験技術にばかり目が行ってしまいがちなんだけれど、日常の点検は大切だ。事故を未然に防げる場合もある。事故が起きた時にあわてて駆けつけて、ぼうぼうに茂った草に足をとられてしまったり、停電したけど発電機が回らないとか良くある話だ。

月額の契約金はその設備の大きさで変わるんだけど、1万円~2万円くらいの事業所が多い。それで、緊急出動、年次点検の応援者への報酬を賄う。
大金持ちになりたかったら他の仕事を選んだ方がいい。と思う。
まあ、うまくやって儲けている人も居るらしいが。
もうそんなことには興味は無い。
仕事はやるからには、全知識と体力を使って全力でやるつもりだ。
受けた仕事はそうする。
草むしりだって立派な保安管理の一環だと思っている。
とにかく地道にやってきたし、これからもそのつもりだ。
やる限りは。
明後日は久しぶりに5時出発の早朝仕事だ。
がんばらなくっちゃ!


自殺の動機「奨学金の返済苦」、22年は10人統計見直しで判明

2023-06-18 07:52:18 | 日記

自殺の動機「奨学金の返済苦」、22年は10人 統計見直しで判明
2023/06/18 05:00

自殺者数の推移と2022年の統計から新しく入った主な項目
(朝日新聞)
 2022年の自殺者のうち、理由の一つとして奨学金の返還を苦にしたと考えられる人が10人いたことが、警察庁などのまとめでわかった。自殺者の統計が同年から見直され、原因や動機に奨学金返還の項目が加わったことで初めて明らかになった。国は、返す必要のない給付型奨学金の拡充などを打ち出しているが、識者や支援者は「いま返還している人への施策が必要」「人数は氷山の一角だ」と指摘する。
 警察庁や厚生労働省によると、原因や動機は、各都道府県警が自殺と判断した事案で、遺書や遺族への聞き取りで分かったものを、「親子関係の不和」「仕事の失敗」といった選択肢の中から選んで分類する。22年からはこの選択肢を細分化して新たな項目を作り、52から75に増やして選べる数を最大三つから四つにした。新たな項目として「奨学金の返済苦」が作られた。
 奨学金が原因や動機の一つとされた10人の内訳は、20〜30代の男性6人と、10〜20代と40代の女性4人だった。
 奨学金利用者の多くは給付型ではなく、返す必要がある貸与型を利用する。日本学生支援機構(JASSO)で21年度に奨学金を利用した学生は148万人。うち、貸与型はおよそ8割を占めた。一般的に卒業後の返還期間は12〜20年に及ぶ。人によっては、返還額は1千万円前後になることもある。
朝日新聞オンラインより



以前はある奨学金を貸し出す団体に寄付をしていたんだけど、奨学金を利用した学生が就職し返済が始まってから(コロナ禍以前の話だが)返済に行き詰まり、破産したとか自殺したとかいう記事を読んで、その団体に質問状を送った。
「奨学金を利用した若い人に無理な返済をさせていないか?もし、不況で給料が減ってしまい困っている人に返済を強要していないか?」
しかし、その質問への回答はなかった。
自分も困った利用者を追い詰める片棒を担いでいるような気持ちから逃れることが出来ず、その団体への寄付は辞めた。実際に奨学金で助かっている学生はたくさんいるのだけれど、どうしてもそれが頭から離れなかった。

代わりに「子ども食堂」を運営している団体への寄付を始めた。
所詮は自己満足の粋を出ないのかも知れないが、寄付の使われる年齢層を下げた。ヤングケアラーが7人に1人もいるという。ご飯がまともに食べられない子供が少なくともその比率で存在し、また、片親で収入が少なくてやはりまともにごはんが食べられない子供がそれに加わる。

自分はとんでもない少年時代を過ごした。お金がない。暴力。親の不和。登校拒否。いじめ。
細々した屁理屈は面倒だ。
困った子供の役に立つなら稼いだお金の一部を利用してもらいたい。
そう考えた。
自己満足? そう言われても結構だ。それで助かる子供が1人でも居れば。

若い電気工事士、電気技術者へ。気をつけろ。無事に家に帰るのが仕事だよ。

2023-06-16 17:45:52 | 日記
JR内房線の線路で変圧器の部品交換中の会社員、感電して死亡
2023/06/16 10:59

JR東日本 【読売新聞社】
(読売新聞)
 16日午前1時30分頃、千葉県富津市竹岡のJR内房線上総湊―竹岡駅間の線路で、変圧器の部品交換作業をしていた東京都葛飾区の会社員谷沢勇太さん(28)が感電したと作業員から119番があった。谷沢さんは意識を失い、搬送先の病院で死亡が確認された。富津署によると、谷沢さんは高所にある変圧器のコードなどを交換していたとみられる。
 JR東日本千葉支社によると、この事故で内房線の大貫―館山駅間で始発から最大約50分の遅れが発生し、約170人に影響が出た。

読売新聞オンラインより

ケアレスミスでのちょっとしたトラブルは多い。
命を落としてしまう事故は実を言うと、電気全体の業界では結構ある。
耳にする。役所から注意喚起の書面が回る。事故現場にいた人から話を聞く。
報道で知る。死亡事故の話が伝わるのは早い。決して他人事ではないから。
電気工事、電気設備管理、電気主任技術者、電気管理技術者、盤屋さん他たくさんの人が電気に触る危険性がある。
とくに若い関係者の人。もしこれを読んだら他人事でないと、情報を疑似体験として身にして欲しい。

現在の仕事の先生(師匠)のこと

2023-06-14 18:15:37 | 日記
今所属している個人事業主の電気管理技術者の加入している団体への加入を希望した。共済組合があるし、損害賠償保険も団体で入れるし、労災保険にも入れる。それは、個人でやってみるとわかるがかなりの保険料となる。
加入説明会に行くと、「入るには保証人が必要です。同じ地区の人でないとダメです。」えっ!そんな知り合いいるわけない。質問をした。「あのう、同じ地区どころか、この業界に知り合いがいないのですが、それでは加入は無理でしょうか?」
「えーと、あなたは○○県ですね。○○支部というところがあるからそこへ電話して相談してください。」
直ぐに電話した。
「入会を希望しているのですが、知り合いが一人もいません。どうしたら良いでしょうか?」
「はい。あなたがもし入ることになったら〇〇地区になります。そこの地区長さんにAさんという人がいますので、その人に電話して相談して下さい。」
直ぐにAさんに電話した。奥さんが電話に出た。
「こういう訳で電話を差し上げました。ご主人はいらっしゃいますか?」
「はい。ちょっとお待ちください。」
「もしもし、Aですが。」
「あの、入会を希望しているのですが、保証人のあてがないのです。支部に電話したら、Aさんに相談するように言われました。どうすればいいだしょうか?」
「じゃあ、履歴書を持って家に来てください。」

履歴書を用意し、手土産を持ってAさんのお宅を訪問した。
「プレハブの建物が庭に建っていて、そこが仕事部屋になっていた。」
履歴書をさっと見て、一つ二つ質問されて、「じゃあ、俺が保証人になるから、次の例会に出てきてくれるかい。」
「ありがとうございます。」
これが師匠との出会いだった。
例会に出て、師匠からみなさんに紹介されると、「あのさぁ、20年くらい前に空手道場に行ってなかったかい。俺のこと覚えてないか?」
「あっ、Sさんじゃないですか?」
「なんだSくんの後輩かい。じゃあ入会に異議なし。」
たまたま知り合いの先輩がいたので話はスムーズに進んだ。
「空手じゃ、Sに意地悪されただろう?」なんて冗談言う人もいた。
Sさんは「とんでもない。俺じゃあかなわなかったんだヨ。選手としてあちこちの試合に出てたやつなんだよ。世界大会に出場した奴と対戦したこともある奴なんだぜ。」
「へえ~」
と和やかに挨拶は済んだ。
それから煩雑な手続きを踏んで入会し、経済産業省、保安監督部から承認番号をもらった。
当時のしきたりで、保証人は全て保証人となった相手の面倒を見なくてはならなかった。
毎週日曜日は師匠の年次点検の手伝いにいった。
はじめていったとき、接地抵抗を測る準備をするように言われ、その様子を見て「だいたい仕事のレベルはわかった。知っていることは全部教えてやるから毎週手伝いに来い。早く一人前にならないと、自分のお客さんのところで事故が起きた時に対応できないからな。」
「はい。でも、もし明日にでも、来週にでも事故が起きたらどうすればいいですか?」
「俺に電話しろ。何とかしてやるから。」
安堵した。それが一番の恐怖だったから。
それから一人前になるのに2年くらいかかったんじゃないかと思う。自己評価では。
師匠はいつも「検電!間違いなく検電しろ。あっ間違えた。まあ次に気をつければいいやの「次」は電気屋には無い。死んでしまうから。次は無いんだぞ。
と必ず仕事を始める前に言った。何年たっても。
空手の先輩のSさんも良く手伝いに呼んでくれた。
3人で仕事をすることも多かった。
Sさんは渓流釣りが好きで、毎年3月解禁になると俺を連れていってくれた。
師匠は渓流はあまりやらない。アユ釣りが好きで。
何とか一人で事故対応できるようになったころ、師匠にアユ釣りに誘われた。
「行きたいのはやまやまなんですけど、アユ竿はすごく高いし装備が大変なんでちょっと。」というと、仕事部屋の隅の方をごそごそと何か探し、
「竿はちょっと古いけどまだ十分使えるからこれをあげるよ。おとり缶も俺のお下がりだけど、これをやるよ。あとは仕掛けは数百円、ウェーダー、水中靴を買えば行ける。上州屋にこれから行って買って来よう。」と言われるがままに、「これとこれを買うんだ。あっ、これは渓流やってるからそれを使えばいい。」
そして解禁日に連れていってもらい。何度か一緒にいった。
アユの友釣りは難しいんだよ。
でも、人生で一番楽しかった時期かもしれない。
ある夏の暑い日、師匠から電話があった。「また手伝いかな」なんて思っていたら「ちょっと家に来てくれないか。頼みがあるんだ。」
「はい。」
何だろう。
「実は、ぼうこうの後ろ側にガンが出来て手術することになった。非常に珍しいガンで、抗がん剤も無いそうだ。摘出して再発せずにいつまでもつかの問題だそうだ。1か月入院するんで、お客さんの代行点検を頼みたいんだが行ってくれるか。」
「もちろんです。他の人に頼まなくても俺が全部行ってきなすよ。」
「はは、それじゃ自分の仕事が出来ないだろう。半分はSくんにたのんだから。」
「はい。」
「そして一か月後無事に退院してきた。」
「転移はなかった。問題は再発だ。抗がん剤が無いっていうんでな。」
1年間は何もなく過ぎた。
1年過ぎたころ電話があった。
「ちょっと家に来てくれないか。」
「はい。」
行くとSさんもいた。師匠の後を追って入会してきたSさんの同僚だったBさんもいた。
「再発してしまったんだ。これで仕事は辞めるから、受け取れるお客さんを紹介するから受けて欲しい。」
俺は「師匠、治療は出来るんですか?」
「いや、もう待つだけだ。」
「そんな!」「また直してアユつり連れてってください。」
SさんもBさんも黙って下を向いていた。
「あとは俺の体力がいつまでもつかだな。」

それから数か月して、息子さんから俺に電話があった。
「親父が〇〇市のガンセンターに入院したんです。もう自分で寝返りもできない状態なんです。」
最後に師匠に会った後、S先輩が脳梗塞で倒れた。
その時はまだ退院して師匠の見舞いに奥さんと来ていた。
俺はガンセンターにすっ飛んでいった。
「師匠!」
「ああ。トミ。来てくれたのか。ちょっとすまんがそこのテーブルの上にある水のペットボトルを2~3本こっちのベットのとこへ持ってきてくれ。」
「はい。」
「見たとおりだ。もうダメだ。延命措置は取らないように頼んだ。心臓が止まってももう何もしない。いよいよさよならだ。」
「師匠。がんばってくださいよ!」
「いててて。ちょっとナースセンターに行って痛み止め頼んで来てくれ。早く。」俺は走って行って痛み止め急ぎお願いします。
「はい。今行きますよ。」
部屋に戻ると痛みで顔をゆがめていた。
注射を打つとしばらくして、また普通に話ができるようになる。
今は、法律が変わっていくらでも痛み止めを打ってくれるらしい。
親父の時はダメだった。
俺はガンセンターに2日と開けずに師匠に会いにいった。
数週間後師匠は亡くなった。62だったと思う。
俺は奥さんに頼まれ受付を2日間やった。
通夜、葬儀後の振舞膳にもどうしても出てくれと息子さんから言われて出席した。俺の悲しみは、親を亡くした時と同じだった。まだ教えて欲しいことたくさんあった。釣りにも連れてってもらいたかった。
悲しかった。
それから2年後くらいだろうか、S先輩も脳梗塞で亡くなった。
ずっと遠くの病院に入院していたんでほとんど会えなかった。55だったと思う。

頼りにしていた2人を亡くしてしまった。
あまりの悲しさのせいなのか、俺の病気のせいか、師匠が最後の入院をしてから亡くなるまでとS先輩が亡くなるまでの時系列が全然思い出せない。今も。
震災の前だったことだけはわかる。年月は全然わからなくなってしまった。
俺もまだ50歳になっていなかったと思う。
50歳を過ぎてから、懇意にしていた仕事仲間がやはり亡くなってしまった。
5歳下だったのだけれど、師匠無きあと唯一の業者仲間だった。
見舞いに行ったその晩亡くなった。
俺は、呆然自失だった。49だった。
今度こそ一人きりになってしまった。
同業者もみんな、前職が同じ会社だったとか、仲のいい人とか、昔から知っていたとか、そういう人たちでグループが出来ている。「機器の更正はどこにだしてる?」「〇〇はどこに頼んでんの?」などとみんなに質問すると、「俺らはどこそこへ。とか、僕らのグループはどこそこへ。」と返答してくる。
俺は電気の業界じゃないところから入ってきたからそういう仲間は居ない。
もう、年齢から考えて仲間を作るのは難しいだろう。
相談できる人も誰もいなくなってしまった。
だから、「すべて1人でやって行かなくては」 と思っている。