すなば たかひろ

「元気で人に優しい鳥取」を取り戻すため、県議になった元新聞記者の挑戦記。みんなで鳥取の未来像を考えましょう!

会派「かけはし」県外調査1日目(2)石巻赤十字病院 

2012年08月29日 | 日記

次に訪れたのは石巻赤十字病院です。全国から駆けつけた医療スタッフを合同救護チームとして統括し、活動拠点となり、一躍全国に有名になった病院です。

 28の診療科を持つ452床の総合病院で、医師119人、看護師491人を含め、1207人の職員が働いています。震災後、市立病院など市内の医療機関がほとんど機能を失ったため、入院できない患者さんが出たため、臨時病棟を建て、50床増やしたそうです。市立病院などの職員も吸収したため、900人の職員が今は1200人に職員が増えているそうです。

  医療社会事業部の高橋洋子副部長からお話を伺いました。以下はその概要です。

 

 震災直後、周囲の田んぼが浸水し、水に浮かぶ病院になった。しかし、三陸自動車道は生きてて、患者を次々搬送してきた。この病院は5年前に新築。地震は必ず来るもとして建物も整備したし、準備、訓練を重ねてきたので、職員の高い災害意識があった。もちろん災害拠点病院の指定を受けていた。

 常設救護班を整備していたことも大きかった。今はDMATを付け加えた。新築でハード面がガラッと変わったことが支援に役立った。広いエントランスはトリアージの場所と想定して設計されている。

外来待合室の壁には酸素口や医療電源を設けていたが、想定通りに役立った。これは看護師のアイデア。現場を知っている人のアイデアが一番いい。

 訓練は机上シュミレーションを実施し、それを実働訓練に落とし、救護班から全職員で救護研修をするようになった。年平均500件の研修をしている。すると、マニュアルは文字が一杯で、わかりにくいと苦情が出て、ビジュアル化するなど改定を続けた。こうした小さな積み重ねが役立った。ヘリポートを持つ機関・病院で連携して訓練も続けていた。被災時は1日に何十機もヘリがホバーリングし、次々に着陸しては患者を搬送するような状況だったが、無事受け入れられた。震災後、これらの経験を基に本当の担当者のネットワーク協議会を立ち上げた。

  地震・津波の市内での被害予測では164人だったが、19021人死亡、3167人が行方不明となった。 阪神大震災は6308人だったことを考えるといかに大きな被害かわかると思う。女川町立病院は海抜16メートルのところだっTが、遡上高は36メートルだった。大川小は児童108人中70人が死亡、4人行方不明。職員も14人が死亡した。南浜では火災も発生した。

  赤十字病院は5分後に対策本部を立ち上げた。石巻の救急車は15台あったが、被災し、動けない。全国から駆けつけて翌日から患者を搬送し始めたことで、患者が急増した。阪神大震災ではクラッシュが負傷者の大半だったが、今回の急性期の患者はマイナス3度という気温のため低体温症が多かった。いわゆる津波肺も多かった。その結果、搬送されてきた時には、既に亡くなっている人が少なくなった。負傷者は軽傷が多かった。災害ごとに怪我は違う。思い込みはいけない。

  市内では赤十字病院だけが機能した。オーシャンビューとして市立病院は入院患者に人気があったが、災害時の立地としては問題だった。30年以内に99%の地震予想がある。現在、市役所の移転先として駅近くが検討されているが、水没した場所。立地はどうなのか疑問だ。

  災害時は行政が壊滅。職員も被災した。安否情報を求めてたくさんの被災者が病院に訪れた。食糧がないと報道されると、何トンという鶏肉、卵が全国から届いたが、被災者に配布する手立てがなかった。それが震災直後の石巻だった。何をどれくらい必要かということを正確に伝えることが重要だ。

 支援チームとして全国から3800チームが来た。石井先生は県の災害医療コーディネイターだったことは、各チームをコーディネイターすることに役だった。ロジスティクスの高橋邦治さん=写真左=も活躍した。

  宮城県全域だけでなく、北海道まで透析患者を搬送した。HOTセンターは、全国から在宅酸素療法機を集めて立ち上げた。在宅医療も、災害時は病院ですることになる。どんな薬を飲んでいたか、それが分かると治療も早い。携帯電話で薬の写真を撮っていた人がいたが、これはいいアイデアだと思った。 

 災害時医療マニュアルの改訂を進めている。研修のプログラムには、女川原発が近いことから新たに「被爆医療の基礎」と「衛星携帯の操作」を設けた。通信が途絶した中、衛星携帯電話は有効だった。

 250人の救護班を目指して体制整備も進めている。災害に強い地域づくりは病院だけでは無理。行政、病院、市民、業者の連携が大切だ。県内各機関と連携してトレーニングをしてきたことが役だった。市の機能は失われたが、市職員が数日間は張り付いてくれたことも、大きな力になった。私たちはメディアと丁寧に連携して情報を全国に発信した。マスコミ対応は大変だが、マスコミを味方にすると大きな力になる。

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