Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小道木の霜月祭り(昭和61年の記憶⑧)

2019-12-14 23:12:28 | つぶやき

和田の霜月祭り(昭和61年の記憶⑦)より

 

昭和61年12月14日撮影

 

 和田の翌日は小道木を訪れている。実は和田の写真を見ていると、霜月祭りを初めて訪れた八日市場で知り合いになって、その後祭りの度に顔を合わせると会話をした飯田市内の方が写っていた。そもそも当時はモノクロが主でネガフィルムだから、撮影した写真を逐一確認することは、写真にならない限りなかった。同様にスライドであっても、35mm版をじっと眺めて、写りこんでいる人を確認する余裕などなかったから、こうして今になって読み取ってみると、意外な人たちが写りこんでいて、感慨深い。先日の写真には、祭りの研究家が写りこんでいることも気づいた。

 小道木は、和田から上へ向かうと、木沢のすぐ手前の集落。今は新しい道ができて、集落内を通ることはなくなったが、その集落から少し離れた川沿いの突端に神社はある。初めてここを訪れた際には、夜になって訪れたから場所がすぐにわからなかった。かつては霜月祭りが行われる神社のなかでも、最も賑わったと言われる小道木である。「担ぎ祭り」とかつて言われた所以は小道木だと、当時聞いたことがある。担ぎ祭りとは、昔この祭りの夜は、男女野合か許され、若者が娘たちを担いでまわった、という意味だという。そんな小道木であるが、わたしの訪れた際には、すでにほかの神社の祭りより賑わいはなかった。14日は上の程野でも祭りが行われるが、小道木が終わってから訪れても、程野ではまだまだオモテが登場するまでには時間がある。かけもちできる状況だったわけだが、小道木より程野の方が、賑わっていたものである。

 写真でもわかるように、湯をはねる際に、提灯を竈の周囲に掲げるのが特徴的で、うまい具合に写真を撮れないのも、写真を撮るカメラマンにとってポジション取りが難しかっただろう。もともとは土製の竈だったが、戦後になって煉瓦造のものにされたという。こういう形式の竈はほかにはない。

 

須沢の霜月祭り(昭和61年の記憶⑨)

 


コメント    この記事についてブログを書く
« 和田の霜月祭り(昭和61年の... | トップ | 上川手の篶竹細工を訪れる 前編 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つぶやき」カテゴリの最新記事