講演「祭礼と権威の民俗-都市祭礼における“見栄”への視点-」から前編より
現在の熊谷うちわ祭のメインは山車と屋台の巡行のようだが、当初からこうだったわけではない。市東真一氏の「祭礼における旦那衆の権威の創造-埼玉県熊谷市熊谷うちわ祭を事例に-」(『日本民俗学』297)によると、文化年間に書かれた『汚隆亀鑑』に「札の辻と呼ばれる場所に祇園柱という白いサラシがまかれた柱が立てられていたという。そこに、鉢形村の太神楽師(軽業師)が紙園柱に上り踊りを踊っていた」という。しかし、同じ文化年中には軽業師による踊りが廃絶し、宿内統一で屋台狂言が祭礼の中心になっていたようだ。別の記述では「屋台は近隣の宿場町である深谷宿より借り受け、子供おどりと称して宿内の子どもを踊らせていたとされる。宿内が上下に分かれて江戸より芸者を呼んで、屋台上で踊りが行われた」というように、まだ統一された形が出来上がっていなかったのかもしれない。祭りの草創期とも言えるのだろう。
現在の山車の登場は明治になってのことのようで、市東氏によれば「明治24年、本三四(現 第弐本町区)が江戸神田の紺屋が個人所有する山車を買い受け、町内での山車の巡行と神田囃子の演奏が行われた。その後、続々と各町内が山車・屋台を持つようになる」という。この最初に購入された第弐本町区のものは「山車」と呼ばれているもので、明治時代に導入されたものは「山車」形式のものだったようである。現在の祭りには山車と屋台が巡行するが、前者は屋台の上に人形がせり出した形式のもので、「屋台」と呼ばれるものには屋根の上にせり出しがない。大正から昭和初期に導入されたものには屋台が多く、後に山車に変更している町が多い。これは公式ホームページに紹介されている「各町紹介」のページを参照するとよくわかる。同ページの荒川区のページには「昭和22年制作の荒川区の屋台も老朽化し、今年新たに念願の「山車」が完成しました」とある。「念願」は「山車」だったということがここからわかるだろう。後発組にとって、屋台より山車が曳航するにあたって望まれていたことがわかる。現在は山車7基、屋台5基だという。
さて現在の祭りの様子も市東氏の記述からうかがってみよう。祭りは7月20日から22日まで開催される。7月19日の午後9時より、熊谷愛宕八坂神社の境内において関係者によって遷霊祭が行われる。20日は各町の町鳶による神輿渡御や山車・屋台巡行が行われ、21日は、各町の山車・屋台が行宮へ向けて巡行を行う巡行祭が行われる。最終日22日は、熊谷うちわ祭の最高責任者である大総代が祈願文を奏上する行宮祭か行われ、午後9時よりお祭り広場と呼ばれる会場で本年度大総代と来年度大総代予定者による年番札の引継ぎ式である年番送りが行われる。深夜〇時になると、一部町内を除いた各町区の青年集団である祇園会による神輿の還御が行われ、神輿が熊谷愛宕八坂神社に到着すると神事が行われ終了となる、という。市東氏の記述から概説させてもらったが、はっきりしない記述があって、私なりに捉えてみた。いずれにしても山車、あるいは屋台の巡行が祭りのイメージと捉えて良いのだろう。ここに、山車・屋台登場前の神輿の渡御が加わる。山車の登場が明治になってのことであり、後に後発の町が加わって現在の姿を創り上げていったわけで、比較的新しい祭りと言える。故に常に変容してきた、とも言えるのかもしれない。
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