Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大久那へ

2016-09-12 23:33:56 | つぶやき

 

 

 昨日の向方行きでは、せっかく行くのだからと、帰りはふだん通らない道を通ってみた。もうずいぶん昔のことなのではっきりとは覚えていないが、早木戸川沿いから山へかけのぼって阿南町の和知野へ抜けたことがあった。仕事でも通ったことがあるし、仕事ではないときにも通ったように思うが、あまりよく覚えていない。和地野に抜けるには標高700メートルを超える大久那を通る。かつて走った30年ほど前も、ずいぶん山の中という印象を持ったが、そもそもそこで暮らしている人々の姿も目にしなかった。果たして今はどうなっているのだろう、という思いは以前からあって、一度神原から和知野へ抜けてみようとは思っていたのだが、なかなか実行できなかった。

 向方から早木戸川を下って天竜川までそう遠くないところまで下り、戸口の入口を過ぎると鋭角に川へ下る道がある。ここを下ると早木戸川を渡る橋がある。このあたりは標高300メートル台。ここから中久那を経て大久那へ300メートルほど上ることになる。しばらく上ると山の中ではあるが集落っぽい数軒の家が見えてくる。立派な屋根が見えてくるから、もちろん現在も住まわれているようだ。ここに集会所があって、その会所の脇に祠とともにいくつかの石仏が並んでいる。のっぺらな彫りであるが、特徴的な女神を刻んだ蚕神様が印象的だ。「蚕玉大神」と向かって右側に刻まれ、左側には「大正十四年旧八月午日建之」と見える。

 ここから奥はもはや道沿いに家の姿を見ることはほとんどない。それでも耕作されているような空間に出会うとほっとする。斜面に蒟蒻がたくさん栽培されている奥には家の姿もちらついた。耳をすませると刈払機の動力の音が聞こえた。国土地理院の地図には「郷戸」と記されているが、本当は「合戸」が正しいようで、道に掲げられている案内板は「合戸」を示している。この合戸から和知野川に下ると阿南町の和知野に至る。当初は下る予定だったが、案内板に誘われて国道151号へ連絡する林道を選択してしまう。所持していた住宅地図の略図を見ていて、国道に出るには「こっちの方が早い」そう期待してしまった。下ることなく、等高線沿いに同じような景色を見ながら進むのだが、なかなかそれらしいイメージしていた光景が見えてこない。見遠という地を経てようやく遠く眼下に国道151号のバイパスの姿が見え始める。見遠は地積で言うと天龍村にあたるが、役場のある平岡からは遥かな位置にある。とはいえ先ごろ発生した岩手県での豪雨の際には、道が通れなくなって迂回すると同じ自治体内でありながら役場から100キロも走ることになると報道されていて驚いたが、天龍村といえどもそのようなことはない。この日このような道を選択しながら、住宅地図があれば良いだろうくらいに思っていたのが間違いで、正確性に欠ける地図は、イメージ通りにいかず距離感がつかめなかった。

 さて、大久那境、鬼ケ城への昔の道の分岐点に覆屋におさめられた石仏があった。丸彫りの聖観音2体とともに同じ時代に建てられたと思われる青面金剛が祀られている。覆屋の外にも何体か石仏が並んでいて、その中の1体も青面金剛で鋭い目で睨む石仏はなかなかの彫りであったが、何分痛みが激しい。覆屋の中に安置されている3体はいずれも明治3年に建てられたもののようで、いずれにも台石に「明治3年 閏十月 組中施主」と刻まれている。明治5年に太陰暦から太陽暦に切り替わった。明治3年は閏月がある最後の年だったという。


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