昭和36年9月号の『伊那路』の目次は次のようだ。
駒ヶ根市中沢新宮川岸の災害(口絵)
上伊那郡中川村四徳の中心部(口絵)
災害後の四徳中心部(口絵)
水害の伊那谷へ飛んで/中垣秋男
災害日録(一)-駒ヶ根市中沢-/木下義男
災害体験記-上伊那郡中川村-/矢崎明
中沢水難(短歌)/赤羽映土
災害日記-上伊那郡長谷村-/長田尚夫
大水害に際して/小松兼夫
災害の新宮川岸-駒ヶ根市中沢-竹村長彦
四徳鉱泉罹災記/小松礼子
林を立てる/向山雅重
最後の向山氏の論考以外は三六災を扱ったもの。とくに目次からわかるのは、中沢と四徳(中川)、そして長谷と、天竜川東岸地域での被災が大きかったであろう、記事の多さである。矢崎氏の「災害体験記」に下表のような降雨量が示されている。こうしてみると、「令和元年台風19号災害」で触れた台風19号の際の降雨量と比較すると、三六災と台風19号の総雨量は、同じくらいだったことがわかる。ただし、前者は10日以上、後者は2日ほどのうちに降っている。そう考えると台風19号の方が強い雨が短時間に降ったと言えるが、その割に被害は小さいかもしれない。その理由はもちろん、長年かけて防災工事が行われてきたことによる。60年も前の国土には、それほど災害を未然に防ぐような基盤整備はされていなかったということが言える。
昭和36年中川村の日雨量
中川村の被災状況について矢崎氏は、役場資料から下表のような数字をあげている。筆者は中川東中学校の教諭。当時四徳には別に学校があったから、とりわけ四徳に南接する桑原の被害状況に注意を寄せている。学区内では桑原の被害が特別大きかったのだろう。矢崎氏は「信毎の二十九日付災害報告では、その分布図に中川の文字が見当たらなかった。これは三日間、陸の孤島として見放されていたことを物語っている。」と述べている。そして桑原のことについて「私たちは桑原の全域にわたり調査し、安否を気遣ったこどもたち全員と会うことができた。これが最大の喜びであった。小学校分校への途上、巾数十メートルのナギが、赤い地肌をむき出しにして、はるか下、四徳川になだれ落ちているのを見た。そんなのが二つ続く間にはさまれて、わずか十メートル程の土に乗る一軒の家、その底土を半分谷にさらして、宙吊り然としていめ鶏舎。分校では詳報を聞いた。立った柱一本も残さぬ教員住宅。三方から崩壊にせまられて、なお被災者を抱えた分校校舎。さてその先洞にさしかかると、全滅という形容そのままの景観が目に入る。この洞と、その先村は四徳川の渓谷そのものに居を定めたところ、全く奔流のほしいままにされた。それでも川のわずかな屈曲の内側に位置したいえのほとんど無傷なのは皮肉である。」と記している。川の外側はもちろん水流で被災を受けるが、内側は水流がこない、当たり前のことだが、流域の現実を垣間見ている。
三六災における中川村の被害
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