「挙家離村のムラ“高地”へ②」で触れたように、高地は明治5年110戸、大正15年99戸、昭和9年95戸、昭和52年3戸、昭和55年ゼロとなった。具体的には昭和35年ころから一気に離村が急増したようだ。もともと100戸ほどあったということで、かつて調査した集団移住のムラ旧高遠町芝平によく似ているといえる。芝平は昭和34年に102戸あったが、昭和52年に40戸まで減少した。こうした状況下で昭和51年ころ生活条件のよい場所に移転しようということになったという。具体的に集落名を記録していないが、当時研究委員会を設けて県内の集団移住先進地を視察している。その視察地が美麻村なのである。過疎法の期限内に移転しよう(補助のため)と計画し、昭和53年12月に移転終了している。集団移住であるから、移転先もみな同じだったわけである。現在も旧名の芝平という地名を集落名にあてている。このことは以前「廃村を行く人③」で取り上げ、『長野県民俗の会通信』145号に掲載した「高遠町芝平地区の民俗(民俗の変化と変容を中心に)」を全文扱っている。また、「廃村を行く人」シリーズの中でもたびたび扱っている。芝平の場合は、同じ時代に挙家離村並に転出が相次いだが、それでもと残っていた37戸が集団移住したわけである。実態からみれば高地と同じ流れで離村が続き、最終的に残った方たちが集団移転を選択したわけで、集団移住以外の離村者の方が多いから離村形態は高地と類似しているのかもしれない。ただ、高地の特徴的な部分は、何度も繰り返すが集団移転をしたごとく移住後の地がまとまっているということだ。
表2
表2は挙家離村のころを年表にしてみたもの。県道が開通したのは昭和38年9月のこと。と同時に乗合バスの運行運動を起こし、翌年11月に定期バスの運行が始まっている。「挙家離村のムラ“高地”へ⑥」で触れたように、なかなか県道を造ってくれないので、自分たちで山の木を売って開けたともいう。このことについて『美麻村誌』歴史編に詳しく書かれている。
自動車でなければならない時代となり、道路を広くする為に砂利入れを行い、また粘土質であるため岩石を破砕して石を敷き、幾百人の人夫を使って漸く自動車を曲尾地積まで導入した。なお大町へ開通までは若栗峰という大難所があり、県としても点でも経費の年月工事期間の点でも困難をきたしたので、地元としても資金迫られて、共有地の杉木立を売払い、二百万円以上もかけて漸く昭和三十八年九月三十日に開通の運びとなった。ついで乗合自動車運行の運動を起こしたが、道路補修等も困難をきわめた。
念願の定期バスが入ってきたものの、すでにこのころ挙家離村は始まっていた。その5年も経たないうちに高地分校は廃校に追い込まれている。前掲書のなかで高地分校の生徒数が記載されており、それによると定期バスの運行が始まった昭和39年には22名、翌年に17名、その翌年に6名となっている。実は昭和40年に父兄よりバスが開通したから2、3年生は本校に通ったらどうかと声が上がって、翌年からは分校は1年生のみとなっている。「このバスがもっと早く開通していれば、移住する人も少なかったろうに」と語られたという。
道ができたから離村してしまった、そう言われても当然の流れだっただろう。県道開通後20年とムラはもたなかった。開通した際には高地分校で盛大に「開通祝賀会」が開かれたというほど、ムラの人々にとっては念願の道だったのだろうが、それが離村に雪崩を打つ必須事項だったというわけだ。
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