高地の若栗の峰まで新田から1.6キロ、ここは大町の王子神社のあったところから道なりに8.9キロほどに位置する。そして高地の中心にあたる曲尾まで前回触れたように4.5キロなので、王子神社から曲尾まで13.4キロということになる。時速4.8キロとして2時間47分、かつての徒歩が当たり前だった時代に早かったとしても2時間以上は要しただろう。この曲尾も高地ではほぼまん中あたりにあり、これより奥の品生(しなしょう)や和田、さらに奥の女生山(のしょうやま)といったところはもっと時間を要したことになる。朝暗いちうに家を出ると、現在県道にスノーシェードがあるところの上に「馬のマヤ」という馬を休めるところがあって、そこで休憩したといい、そこに行くと夜が明けるころになるように行ったという。分校の先生だったという女性によると、離村した子どもたちに大町の学校に転任したあとに声をかけられ、「昨日高地の水をお父さんと汲みに行ってきたんだよ」と話を掛けられたことがあって、「お父さんたちじっと行っているの」と問いただすと「土曜か日曜には必ず行ってくるんだよ」と答えたという。
何より分校で先生をしていた女性から見て「仲が良かった」と見えたムラ人が、そして分校に夫婦でやってきていた先生に感謝の意を表していたというのに、挨拶もせずに出て行ったというムラ人たちを突然挙家離村に振り向かせた原因は何だったのか、その背景から考えさせられることが多い。「挙家離村」についての解説は少ない。代表的なものとしてウィキペディアがあり、そこでは
農村または人口の少ない場所にダムなどを建設することになった際、その住民が立ち退かなければならなくなり、立ち退く際に、一家総出で都市に引っ越すこと。もちろん一世帯の問題ではない。結果廃村・限界集落化が引き起こされる。
当然住民にとっては、財政面でも、精神面(多くは墓所の問題)でも苦痛を感じ、反対活動が多く起こる。日本国憲法では、公共の福祉(第29条3項)のため、正当な補償の下に財産権を制限することを認めている。
現在では集団移転ともいう。
と述べている。この表記は本来の挙家離村とは異なるのではないだろうか。そもそも集団移住とも違う。当時挙家離村の村として話題になったとも言われる高地、当時の挙家離村とはいかなるものだったのか、このことは日をあらためて考えてみたい。いずれにせよ、雪崩を打つように離村していった姿と、それらの人々が大町市の王子神社周辺にほとんど移住したという特殊性は疑問を膨らませる。それこそ形上は集団移住に近いのだが、集団移住は法律上に定められた形で実施されるのがふつうだ。明らかに高地のケースは異なり、気がついたらみな居なくなっていたというもの。このことについては歴史上の記録から再確認してみよう。『美麻村誌』歴史編(平成12年 美麻村誌刊行会)に「過疎の村と課題」という項がある。やはり高地のことが盛んに記録されている。その移住先について表1にまとめてみた。聞き取りではほとんどということであったが、8割が大町市ということで間違いではない。その理由について同書では「職場が大町市やその通勤範囲にあり、生活地と職場とが一致し、働きやすい条件が比較的に整えやすかったこと等のほかに、松川村のように村の政策として宅地造成を進め、比較的安い土地を求めることができた地への移転が行われている。」としている。案内をしていただいた方々も、すべての高地の人々が出作りに行っていたわけではないと言われた。そうした人々が多かったことが、伝手として集団移住化させたとうことだったのだろう。先生の言われたように「王子神社の周りに集まる」が合言葉のように。同書では『高地の歩み』(昭和59年 松下勝森)の移住者の言葉を引用している。少し長いが全文掲載してみる。
都市と山村との経済及び文化生活の上に格差がつき、ことに高地のような不便な山村にあっては、新時代の大きな波にあおられ、お互いの生活上に変化を来して参りました。山村にあっても時代に即応して文化生活もしたい。子供の教育も伸ばしてやりたい。収入も少なく、交通も不便であり、近隣の町へも遠い高地にあっては、等しく文化生活の恩恵に欲することも困難である。これらのことがお互いの頭のなかに芽生え、隣近所の話合いのなかに大きな将来への課題としてもち上がった。それが故郷を離れる心の芽生えとなり、年々一人離れ、二人出、そしてついに全体が転住の状態になった。転住ということが、止むに止まれぬ宿命みたいなものであった。また、「出ていけばなんとかなる」「人も出るから」「嫁のきてもない」「雪掻きや道ぶしんの苦労が多い」「生活費が上がるのに収入は少なく、毎年三~四万円の赤字になるので立ち木を売って補っていた」。
加えて同書では「転出が始まり浮き足立ってくると、働く能力のある大人は、自家の経済設計にしか心をくだく余裕がなく、自分だけが置き去りにされるようなことがあってはならないという大きな不安から、いろいろな面に「奉仕反対、協力ご免」の風潮が流れ出した。区民全体の分校教育や公民館活動への意欲が急激に衰えた。区民が協力して培ってきたいろいろなことが、あっという間に消えてしまい社会崩壊が始まったと、当時の分校教師が『高地分校沿革誌』(昭和44年3月)で述べている。」と記している。
表1 高地からの転出先
※表は「昭和30年後半から約10年間にわたってまとめたもの」
前述の移住者の言葉を聞いても、とりわけ高地だけに突出したことではなかったはず。これまでにも述べてきたように、北安曇の中心地である大町まで10キロほどの位置にあった高地は、マチから途方もなく遠かったというわけではない。山間のムラは数え切れないほどあったし、傾斜のきついムラも県内にはあまたと存在した。にもかかわらず、雪崩を打つような現象を呼ぶ意識に何があったのか、ますますわからなくなるわけだ。
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