今年が節目の年であることは、先ごろも記した。
かつて、「今年が最後」と挨拶のたびに口にされた方がいて、部外者から批判される姿を見た。だから、というわけではないが、今年が最後などという言葉はもちろんのこと、雰囲気も見せたくはないと考えている。しかし、焦りがあるのも事実。以前にも記したとおり、宿題が積んだままになっていて、それをすっきりさせるのは容易ではない。それでいて、例年通り、いいや例年以上の業務がその上にさらに積まれた。それをクリアーしない限り、その下の過年事案に手がつけられない。というか、その下の過年事案を少しずつ引き抜いては合間に手をつけないと、投げ出すことになる。故の焦りなのだ。来る年来る年、今年が「最高」などという言葉を吐いたが、もはやその言葉を吐いて、それを理由に後年に送るわけにはいかない。解っているものの、1日1日は、いつもどおり葬られていく。冷静に自分を見つめられる夜半は、もはや新聞屋さんのバイクの音に迫られるレベルを逸脱している。
にもかかわらず、新型コロナウイルスである。わが社にとって影響度合いは少ないが、このストレスを抱える余力がない。それでいて、いつ終息するとも予想のつかない現状には、再来した際の閉塞感はこれまで以上の重さになるような気がしてならない。これまでは「あと少し我慢を…」という思いがあっただろうが、その時は「もう抜け出せない」という思いに満ちてくるだろう。今、人々は再開に向けで段階を追おうとしているが、あのころに戻れないうちに再来したら、人々の心は持ちこたえられるのだろうか。もちろんそのような心配をしている間などない。まさに1日、1日、できることを積み重ねていくだけのこと、いいや、できないことも含めて山を削り落としていくしかない。鬱憤など晴らす場などない。独り現場で思い通りいかないと、独り言を発して憂さを晴らすのみ。独り言が、最近富に多くなった、と思う。
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