Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

回想“まつりの旅”

2016-01-30 23:50:10 | つぶやき

 

 民俗の会の今年の企画として会草創期の方々に「話を聞く」というものがあって、この31日に県内の民俗芸能研究の第一人者である田口光一先生のお宅を訪問することになった。田口先生とは民俗の会ではもちろんだが、まつり同好会を介しても同席させていただいたことが多い。そんなことを思って過去の記録を紐解いていたら、昭和61年の記録が目にとまった。まだ20代であったあの時代、仕事上で現場に出た折、あるいは遠出をしたことについて記録を残している。たいした内容ではないが、その記録には捨てても良かったような資料も添付されている。「奈良から田辺へ」と記した記録は同年3月14日から16日のもの。ちなみにこの際に撮影したフィルムを紐解くと、旧坂北村の刈谷沢神明宮作始め神事と同じフィルにこの旅の写真も写しこまれている。長野県民俗の会の例会として刈谷沢神明宮の作始め神事見学例会は、案内を田口先生がつとめられた。そもそもなぜこの記録に目がとまったのかと言うと、これもまたまつり同好会の見学会だったからだ。3月14日は東大寺二月堂の修二会最終日。これを見学するのがひとつの目的だった。

 いつも通り名古屋のまつり同好会を主宰されていた田中義広先生のお宅を訪ね、そこから旅は始まった。午後2時すぎに鶴舞を発し、東大寺に着いたのは夕方の午後6時前。東大寺華厳寮に宿泊しての修二会最終日の見学。それに何人参加したのか正確には記憶していないが、当時はいつも3人から4人程度の遠出だった。ようは車1台に乗れる程度のもの。もちろんわたしは運転手なのである。先生の気の向くままに車を操るのは簡単ではない。そういう意味では先生にはわたしが使いやすかったと言える。午後6時半すぎそれまで(12日、13日)とは異なり、二月堂に籠松明が十本並ぶ。いったん華厳寮に戻り、午後8時過ぎに再び二月堂へ。今度は内陣に入る。内陣には秘仏の観音を囲むように須弥壇の四方に壇供の餅が積まれ、造花や神灯が並ぶ。造花は和紙の椿が生の枝につけられたもので、古いものを頂いてきた。導師による祈願と呪師四大勧請の作法が行われる。が暗がりの中に見たそれらはほとんど今は記憶にない。

 翌朝東大寺戒壇院などに立ち寄った後、春日大社の内廊で行われる御田植祭を遠目にして奈良を発し、橿原考古館に寄り高野山から高野龍神スカイラインを南下して南部川村に入った。そして鹿島が真ん前に見える国民宿舎みなべが2日目の宿泊地。翌16日は田辺市にある高山寺にある南方熊楠のお墓参り。田辺市立民俗資料館や磯間岩陰遺跡、闘鶏神社、そして南方熊楠の家などを見学して田辺を後にし、湯浅施無畏寺を経て帰路に着いた。記録には「佐藤さんを北区まで送り…」とある。この旅に佐藤宏さん(版画家)が同行していた。佐藤さんはまつり同好会の会誌にあたる『まつり』の表紙絵(版画)を作成されていた。内容が濃い、というかあれやこれやたくさん見学してくるのが田中先生のいつもの見学会だった。当時何度となく運転手として同行したが、この時だけ行き先の見学メモのようなものを田中先生からもらい受けた。それが冒頭のメモである。左側に龍神村から田辺までの広域図。右側に田辺市の略図が記されていて、想定していた見学箇所がたくさん記されている。できればすべて見て回りたい、そんな思いが詰まっているメモである。こんな具合の旅のひとつに、田口先生の地元である上田行きの旅もその後展開された。

 東大寺修二会については「東大寺の修二会-見学記-」と題して『まつり通信』303号に、田辺行きについては「紀州の見学」と題して『まつり通信』304号に田中先生が報告されている。

二月堂に十本の籠松明が並ぶ

 

山伏が白い戸帳を満身の力をこめて引き、ねじりあげて天界の行法を垣間見せる

 

南方熊楠の墓を前に田中義広、佐藤宏、両先生

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 野沢温泉の道祖神祭りを訪れて④ | トップ | 今日話題の“雨氷” »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つぶやき」カテゴリの最新記事