12月に県内のよその地域のあるサロンに依頼されて話題提供者として話をすることになった。内容は何でも良いというものの、わたしの知識で話せることは経験値ばかり。その経験値でその地域の人たちに面白く聞いていただけるかは何とも心もとない知識しかないのだが、いっそよその地域のことを題材にして考えてもらうのも良いのでは、と思い、今は伊那谷のことを話そうと考えている。長野県内でも伊那谷というところは、自ら後進地域だという遜ったというか劣等意識が強い地域と考えている(わたしがそう思っているだけかもしれないが)。そんな地域を題材に話をさせてもら地域のことへ置き換えて考えてもらえる内容を模索したいと思う。その一視点として自らの住んでいる所を「地図に描く」というものはどうだろう。
これは以前にも「遊びの空間を考える③」や「何を上に描く」の中で触れたものだが、自分の住んでいる地域を描くといってもその範囲によって違ってくる。例えば自分の①住んでいる集落を中心にしたもの、②住んでいる町を中心にしたもの、もっと広く③周辺市町村あるいは商圏という範囲を描いたもの、④伊那谷全体を描いたもの、という具合いに描こうとする範囲によってきっとイメージするものは違ってくるだろう。「遊びの空間を考える③」でも触れたように、わたしが子どものころを描いた空間と、高校に通い始めたころの空間、そして社会人になって長野県内を転勤するようになって捉えた空間は「成長」というキーワードとともに変化していく。そしてそのつど描く地図は南北の向きが異なっていく。「何を上に描く」でも扱ったが、長野県を捉えたとき、県図をひっくり返して捉える人はまずいないだろう。そもそも「地図は上が北」という常識がわたしたちの脳裏に強く焼きついている。その常識に倣えば北を上に向けるものなのだが、意図を持った地図は必ずしも上が北というわけではない。仕事がら図を描くことが多いが、測量の世界では起点を左側に置くのが常識だ。その起点をどういう意図で設置するかによってもそれは決まってくるが、その際の起点が地図の常識でいう左、いわゆる西に置くなどと言う考えはもうとうない。もちろん一時的なそのような図が、人々の記憶に残ることはなく、あくまでも専門世界の常識に過ぎないこと。やはり人々の記憶に残る空間はその人それぞれの行動と絡んだ上に、「地図は上が北」という常識がアウトプットに影響を与えるものだ。
それにしても伊那谷といえば、北を右に、南を左に(正確には若干振れるが)という配置が一般化している。こうした図を描くのもどちらかというと特定分野のものであって、普通は地図と同じように配置することが多い。もちろん上が上伊那、下が下伊那、字のごとくなるが、それは天竜川の流れに合わせているからのことで、地図の上下に合わせたわけではない。そういえば伊那建設事務所で捨てられそうになっていた古図に天竜川を図化したものがあって以前にも引用したが、その地図である「天竜川平面図」なるものも左が南、右が北と設定されている。これは河川図が左を下流としているためなのだろうが、役所で作成した図が長い時間を経てわたしたちの記憶に留まった、という解説もあるのだろうが、それだけではない意識がある、というのがわたしの考えである。
続く
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