Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

五輪塔残欠と道祖神

2024-07-14 23:47:28 | 地域から学ぶ

 「旧丸子町西内の自然石道祖神④」において旧丸子町西内平井公民館の庭にあった石碑群について触れた。その中に道祖神とはほんの少し離れていたが、お地蔵さんの前に五輪塔の残欠のようなものがいくさも並べられていたことについて記した。五輪塔の残欠といえば、上水内郡内で集中的に五輪塔残欠を道祖神と称している例があること、そして本日記でも何度となく道祖神と五輪塔残欠が同居している写真を紹介してきた(例えば「道祖神と五輪塔」「虫倉山の麓へ繭玉型道祖神を訪ねて 後編 その1」など)。東信エリアである西内や東内で同様の光景を見て、五輪塔残欠が道祖神と同居する事例の広がりを知った。しかし、自然石道祖神が多数現存する伊那市周辺地域で五輪塔残欠を見た覚えはない。そもそも五輪塔というものそのものが、それほど多くはないとともに、よそで五輪塔残欠と言っているような小さな五輪塔は、伊那谷は少ない。道祖神空間に五輪塔残欠が見られる地域には、それほど五輪塔が多く存在するのか、と最初見た時には思ったわけであるが、わたしとしては五輪塔が道端にころがっているという光景が当たり前でないため、違和感を抱いたわけである。

 実は同じような光景、いわゆる道祖神と五輪塔が同居している、あるいは道祖神と呼ばれているのではないか、と思われる地域が神奈川県で見られる。それに気がついたのは、今回あらためて書棚に入れたままになっていた『相模の石仏』(松村雄介 木耳社 昭和56年)を開いて写真を見ていてのこと。双体道祖神と五輪塔が並んでいる写真がいくつか見られたためだ。気がつくとともに同じ書棚にあった『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』(秦野市立南公民館道祖神調査会 平成元年)を開いて見ると、悉皆的に写真が掲載されていて、自然石はほとんど見られなかったが、そもそもそれしか道祖神の対象となっていない事例がいくつか掲載されていた。それらには五輪塔残欠が道祖神とされている例があり、上水内と同じ例があることを知った。そこでウェブ上で検索してみたわけだが、やはり神奈川県の道祖神は五輪塔との関係性が高いことを知った。下記に松田町の例を取り上げてみた(クリックするとグーグルストリートビューで確認できる)。とりあえず松田町の例だけだが、おそらく神奈川県内にはよく見られる光景なのかもしれない。

 なお、松田町のこれら情報は「神奈川県内の道祖神と寺社の散策散歩」からのもので、そのうちの「松田町」を今回検索してみた。

中沢道祖神(松田惣領1932付近)

沢尻道祖神/石仏群(松田惣領1526付近)

寄弥勒寺道祖神(寄弥勒寺2189付近)

寄田代道祖神(寄田代5326付近)

神山北村氏道祖神(個人所有)


 また、松田町の道祖神を検索してみると、まさに自然石を道祖神と称している例も掲載されていた。下記の例である。

稲郷道祖神(寄稲郷4337付近)

寄中山道祖神(寄中山3252付近)


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