なぜ講演会発表録ばかりで論文がほとんどないのか、一応投稿を呼びかけているから載せないわけではないのだろうが、講演会録で紀要が埋まってしまうほど、講演会が好みだとも言える。それも学会では著名な方たちばかりだ。そこにそのつどの問題意識の無さが浮き彫りとなる。福田アジオ氏はもったいない柳田館という存在を前に、「他の多くの研究会と同じように、各自が自宅で研究した成果を持参して報告し、討論するという持ち寄り型の研究会ではなく、拠点をもつ有利な点を生かして、研究所に集まって共同研究をするような活動計画を作るべき」と言う。「研究所に設けられた研究会に、研究所で作業を行い、共同で研究するような課題を設定してはいかが」かと続ける。さらには「日常的に柳田國男や民俗学上の問題を語り合うサロンとしての柳田國男館にすることも考えて良い」と他の研究団体とは違うメリットであるより所を活用すべきだというのが主張だ。わたしにしてみれば、研究所に集って研究をする以前に、共同課題のようなものに対して、それぞれの視点で発表するということをまず始めてみるべきだと考える。かつてこの研究所にかかわったころこのことを提案したことがあるが、ほかの研究団体が行っているこうしたやり方に積極的ではなかったと記憶する。繰り返すが講演会による偉い人の言葉を受け入れる土壌はあっても、会員が発進するだけの能力が当時はなかったし、あらためて福田氏に指摘されるところをみると、その後もその志向が育まれなかったといっても良いのだろう。偉大な言葉でないと聞き耳を持たない、そんな印象がこの会の土台にはある。福田氏の思うところに届くかどうかは、従来から携わってきた人たちではなく、新たな人たちの手中にある、というのがわたしの考えだ。
福田氏は盛んに「共同」という単語を連発して個人技にのみ頼らない成果を、と掲げる。これだけ調査報告書を積み重ねてきた本会の実績をしてもそれができていないとしたら、いったい調査活動はいかなるものだったのか、と問わなくてはならない。福田氏はかなり難しい課題を挙げて展開を企てる。しかし、所長の行動力だけに頼っていたらこれまでとなんら変わらない。所報ではさっそく「福田所長連続講座の実行委員を募集」している。以前にも触れたように、この会は内部にいくつもの会を設けてただでさえ少ない活動会員が分散してそれぞれの活動をしているきらいがある。○○会なるものを立ち上げるのではなく、なぜひとつの課題に取り組むことができないのか、あらためてこ会のこれまでの活動が足かせになっているのではないか、という感想を抱かざるを得ない。
終わり
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