無言のステージ②より
『生活と自治』9月号(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)に「Iターンを引き寄せる“美しい村”」、そんなインパクトのあるタイトルで掲載されたのは下伊那郡大鹿村。よそから移り住む人が多い村という印象を与えるが、わたしが思うによそから移り住んだ人々が目立つ村、と表現させてもらう。この村には特徴的な看板を掲げる店や宿泊所が小さな村ながらいくつかある。そうした店などはおおよそよそから移り住んだ人たちが主体である。この日記でも触れたことがあるが、よそから移り住んだ人たちで議員さんになっている人もいる。それだけで“開かれた村”という印象を受けるが、必ずしもそうではないのだろう。当然のこと従来の村人との軋轢もあったのだろうが、記事では中世の宗良親王まで引き出してこの村がよそ者に対して開かれた村だと表現する。その例えはちょっと飛躍しすぎだと思うのだが、この村の移住者の活躍(?)がそんなイメージで創造されたことを正しい解釈だとは思わない。やはりその背景にはいろいろな条件が折り重なっているはず。そして移住者が多いことによる課題がないはずがない。もちろんこんな感想は後ろきな発言ではあるが。
よそ者を受け入れる地場というものは確かに存在する。それがどこからくるかと言えば、確かに長い歴史認識の上に立つことも事実なのだう。とはいえ、その意識は何世代にも遡るものではなく、戦後の動きの中に育まれたものは多い。とくに閑村となった村々が戦後急激に人口を減らしてきたことはどこでも同じだ。戦後の変化がどれほど急激だったかを語る人々はいまさらいない。しかし、実体験してきた人たちが語らない以上、現代人はあたかも長い歴史の「風土」として捉えてしまいがちである。あいまって歴史遺構がそれを後押しする。大鹿村なら大鹿歌舞伎が後押しをする。しかし大鹿村がそれですべて表現されるものでもない。下伊那郡内で期待大きいリニア新幹線に対して最も不安を露にしているのも大鹿村だ。こうして創造された偶像のようなものの背景には行政の後押しもある。成功例を見習え、公の世界は視察が大好きだ。意欲のない者は影へ、あるものは表へ、という現象は意外にも公開性のない村々でも実践される。
かつて飯山にいたころこんな噂をよく聞いた。○○はスキー客が多いことで学校が荒れる、というもの。どこでもそうとは言わないまでも、他人が多く交流することで、その地の種に純粋さが失われるという現象は自然界に教わる。人間は思考力があるからそれを差し止める力があると信じるが、自然の原理ほどの教訓を忘れてはならない。ましてやこの世に至って自然の原理に対する感心は高い。そしてそれに反するわたしたちの暮らしはさらなる高みを増す。ようは矛盾を跳ね除けることができないほどわたしたちの言動は一過性に富んでいるというわけだ。
続く
>よそ者に対して開かれた村だと表現する。
★わざわざ、説明することではないのですが、
日本国憲法第22条では
1.何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2.何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
ですから、
★それから、大鹿村っていわゆる「街道」沿いの村でしょ。「よそ者」に対し開いていて当然です。
ではでは