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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続・御鹿祭り

2010-07-19 23:34:58 | 民俗学
 何とも情けない話。昨日記した南宮神社御鹿祭り、記憶では初めての見学だと思っていた。ところがである。古い写真を紐解いていたら、昭和63年に訪れていた。まったく記憶が無いのだがけっこうたくさん写真に納めているから確実に訪れている。昨日触れていないが、足洗い場と言われる休み場は、かつては木下と三日町を結ぶ道路の南側にあった。その場所を所有している方がその場所を廃止してしまったため、今は北側にあるシンセイという工場が休み場となっている。当時もこの工場がになっていたが、実はこのにおいて南宮神社より出迎えを受ける。奉納する村は木下とは無関係の村であって、奉納をずっと担ってきた村。その当番の村の奉納を受けるわけだから当然丁重に奉納する村々を迎えなくてはならない。南宮神社の総代がこの足洗い場に向かって、そこで御鹿を迎えるのである。この日その儀式のようなものがあると思っていたが、出発前にそれはなかった。あるいはもっと早い時間に行われていたのか、そこまで確認しなかった。昭和63年というと、隔年で奉納されている11巡前。ようはその年も天竜川東の福島・福与が奉納の年。今年の様子と比較になる。

 写真でも解るように昭和63年には休み場を総代が迎えにきたところがしっかりと写されている。そして今とさらに異なるのは、警護に付く親の姿である。原正秋氏が著した「おししのまつり」(『伊那路』102 昭和40)にはこう書かれている。「装束は裃、帯刀、一文字笠のその頃の装束のまま」というもので、かつては警護に付くのは男性だったようだ。現在は母親が警護としてつく場合が多く、父親の姿が若干混ざる。昭和63年の場合も母親の方が多いものの、父親らしき姿も何人か見え、その姿はまさに裃に帯刀、一文字笠という出で立ちである。現在は男性がついても裃姿ではない。白いシャツに統一しているようだが、いずれにしてもこの20年の間に変化している。元文元年(1736)に木下陣屋が消失して飯島代官所支配になったころ、やってきた役人が大小の帯刀をさしている姿を見てとがめた文書が残っている。現在でも裃は着用しないものの、警護役の父母の身支度も整えるように毎年正しているという。単純な付添い人というわけではないのである。

  現在はシンセイを出発すると西へ向かうわけであるが、交通安全協会の方たちが事故のないように行列の誘導や子どもたちの安全を守っている。行列の写真を撮ろうとすると、こうした安全協会の方たちの姿が必ず入ってしまう。ところが昭和63年の写真にはそうした人々の姿が登場しない。当時は地区役員と父兄によって守られていただけなのかもしれない。


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