いよいよ本家である旧伊那市を扱った『伊那市史』からの引用である。ここまで扱った旧高遠町や旧長谷村といった中央構造線谷周辺では、タイトルである火祭りの「せいの神」という呼称は一般的ではないということが言えた。そして発端となった伊那市にある「みはらしファーム」は中央アルプス山麓にあたるわけで、中央構造線谷からはかなり離れていることになる。その伊那市を代表する呼称が「せいの神」であるかどうかを『伊那市史』に見てみるわけである。
『伊那市史現代編』(伊那市史編纂委員会 昭和57年)
道祖神(石造文化財 P1100)
道祖神信仰は古くかつ他の多くの信仰と習合して複雑化しているが、古くは村に入り来る悪者や病気を村境で障り止める「さいの神」であり、後に行路安全の神となり、性神的要素が濃くなって、縁結び、子供の遊び相手となり、また厄落しの対象にもなっている。すなわち小正月十四日の晩、厄年の人は今まで使っていた茶碗に年齢数の銭(入れきれないときは大根を切って代わりとする)を入れて道祖神に投げつけてこわし、厄落としをする。良緑を道祖神に願うことは二月八日朝が多いが、福島では一九歳の娘は小正月厄落しのついでにも頼むという。どんど焼は道祖神祭の一つで、昔は小正月に行ったが、だんだん正月七日前後が多くなった。大文字といって、天下泰平・五穀豊穣を願って美しい福袋等を吊るした竿を道祖神の傍に建てる行事が西箕輪上戸で今でも続けている。これは辰野町の北大出や羽場、箕輪町大出や北小河内でも行われており、昔は相当広範囲にわたっていたと思われる。
分布は伊那の四〇から美篶の二六までほとんど大差なくあり総数二二七基。種類別では像一九、石祠五、文字一四一、奇石六二基。年代は諏訪形の双体像が「享保三戊成年十月吉」(一七一八)銘で最古。青島の双体像が宝暦十年(一七六〇)銘で続く。このように古くは双体像が多く、だいたい江戸時代で終わる。次に羽広の石祠が明和四年(一七六七)銘をもつ。石祠は北信に多く、伊那でも辰野町の西山付き村々にあり箕輪町から西箕輪、伊那山寺まである。文字碑の初出は与地の「道六神」が安永六年(一七七七)銘。これを見ても当地で道祖神のことを「どうろくじん」と昔から言っていたことがわかる。「道祖神」という文字の最初は貝沼の寛政七年(一七九五)銘で、以後文字碑が多く造られ、昭和の近年まで続く。
道祖神は厄落としに無くてかなわぬ神で村落に一基は造る。しかし庚申のように周期的に建てることがないから数はそう多くない。古くは文字も何もない「奇石」を神の依り代ないしは標識として建てていた。当地一帯にそういう奇石が多い。ところが、道祖神の性格を具象化化した像や文字が現れると、その方が主役となるといった次第で、奇石と像あるいは文字が道祖神場に併立している場合が多い。
道祖神(信仰 P1166)
(前略)
この観点から伊那市内の道祖神を見るときに、村外れや出入口の辻・坂の途中(西町の猿坂、美篶の上大島・中県)に、悪霊・疫病を塞ぎ防ぐ神として道祖神が祀られ、文字碑が最も多い。その始めは「塞り石」として石棒や奇石をおいた。伊弉諾命の黄泉比良坂の塞り石「道反大神(塞の神)」の神話によったものであろうか。後に道祖神は器量の悪い神様だからというようになり、その奇石に神秘的な力を感じ、厄除神として獅子という奇石もある(小澤・羽広)。また岐神(東春近・渡場)や道六神(与地)があり、数が少ないが石祠(御園・吹上・羽広)があり、双体像(北福地・上新山・下新山・青島・中坪・下殿島・小出・諏訪形・赤木)がある。また「さいの神」の地名も今も残っていて、この神の性格を窺うことができる。これらの道祖神について「石造文化財」の項で詳記され、その祭祀や、正月における厄落し、どんど焼の関連行事は「年中行事」に記載してあるので、二、三の事例以外は省略したい。
道祖神の嫁入り 西町区大坊と横山の間で、「盗んで来た」、「盗まれた」と言う道祖神がある。三辻で北向の道祖神があると村が栄えるという。大坊の道祖神はそのような場所にあった。「こちらの道祖神は大変良い道祖神様だで、是非盗ませて欲しい」と酒何升かを持参して申し込み、一方ではほめられていささか自慢気に承諾したらしい。今も横山の北方にあるのがそれで、両者が一致して伝えている。
道祖神まつり どんど焼の道陸神笑いに「どうろく神という人は馬鹿のような人で、出雲の国いよばれて行って、じんだら餠に食いよって、後で家を焼かれたワアイワーイ」(西町・荒井)とはやされているが、二月八日の「おこと」にはいよいよ出雲の国から帰って来る。そこで道祖神の好きな餅を搗いて、藁の馬に背負わせて子供たちが持って行って道祖神に供える。藁の馬は高さ三〇センチ、背の長さ五○センチ、足の太さ三センチくらいで、小さい鏡餅と俵状の「藁つと」を二つ作り、馬の背につける。最初の者は置いて帰るが、次の者から供えてある馬を持ち帰り、最後に馬一匹が残る(山寺・手良・富県)。この餅を「お事の餅」又は八日餅ともいう。
道祖神の前や近くの田圃で火を焚く風習がある(手良)。これは道祖神を迎える目印であり、悪霊や厄病神を追い払う火だと言われている。最近この風習もとだえてしまったが、ただ十四日歳の厄落としに投げた茶碗の散乱を各所で見かけることがある。
でえもんじ 西箕輪上戸では、厄除を願って正月十四日朝道祖神前に飾りをつけた七間もある竿を立て、でえもんじと称している。
正月七日ごろまでその家の女手などの状態を考えて、赤青黄緑の四枚一組の短冊型の色紙が一組から四組くらいずつ配られ、昔の「おひねり袋」のような袋を作り、それに一杯のもみがらをつめ、その下に、鶴亀・福俵・小判などの縁起のよい飾り物をつける。紙を破らないようにしかも左まきにならないように作ることは大変むずかしい。
小正月の十四日寒気肌をさす未明、太鼓の音を合図に、子供たちが持ちよる。そこでは大火をたいて、大きな注連縄を作ったり、七間もの太い竿には地上三間くらいのところに、石油箱のような障子紙をはった灯篭が上下に太い穴をあけてさしてあり、その片面には「天下泰平」片面には「道祖神」などと筆太に書かれている。その上にでえもんじという袋をつるす板がさしてあり、その上方に生竹と三升樽、その最先端に竹を細く割ったのへ色紙をひらひらとはった「花」と称するものが沢山結びつけてあり、大きい注連縄のついた太い綱が三本結びつけてある板に、袋をつるし掛声も勇ましくこの重い竿をたてる。この掛声が寒い闇の中にこだまして勇ましい。建て終わって、たき火を囲んで冷酒を一杯。これは腹わたにしみわたり味は格別。このまま二十日まで建てておく。
二十日未明、またまた寒さを吹きとばすような太鼓の合図で、村中の人が集まり、竿を倒し、他人の持ってきた良い飾りのあるのを貰おうと大騒ぎになり、袋二個と花二本をもらって暗い道を我が家に帰り、でえもんじは神棚へ供え、花は入り口へさしておく。
昔一度この行事を止めたことがあり、そのとき村に疫病が大流行し村人が数人死んだ。これは大変と再びはじめ、今日に及んでいるとは古老の話である。(公民館報いな・有賀進氏記)
(年中行事 P1258)
道祖神飾り 塞の神の前に五色の紙を、青竹に結びつけ、御幣と五色の柳と五色の短冊で飾り柱に立てる(東春近村誌)。
二月八日に道祖神祭りを行なっている地区が多い。講中七戸から一名ずつ当屋に集まり、「道祖神 講中」と書いた掛軸をかけ、お神酒を上げ、線香をたてて拝み、その後酒肴で祝う(芦沢)。
各部落単位で行ない、郷の坪では大人も子供も集まり、田圃で火を焚き、米垣外では道祖神の辻で火を焚き太鼓を叩いて、それぞれ酒と菓子で楽しみ、日向では十一日灯篭を上げ当屋で酒肴で祝う(中坪)。
でえもんじ 四箕輪では厄除を願って、十四日の朝道祖神の前で飾りをつけた太い竿を立て、でえもんじと称している(信仰の項に記載)。
どんど焼 せいの神、またほんやりとも称している。どんど焼きは一四日に門松や注連を、二十日に内飾りを焼く習わしであったが、二十日にまとめて行なう所も多い(西箕輪・東春近・横山)。
どんと焼は六歳から十五歳までの子供連の行事で、耕地・町内・字・組・小字単位で行う。年長者(頭)の指図で注連飾りや松を集め、学校帰りに枯枝などを集めて置き、その日に松などの芯の木を立て、それに正月のお飾りを結びつけて焼くのである。芯木は村役が伐ってやるところ、決めた木を伐らせるなどさまざまである。
注連縄は歳神様がお泊りになるから神聖な張りものであり、どんど焼の煙にのって歳神様はお帰りになるという。どんど焼の場所は道祖神(塞の神)のところで、道陸(六)神笑いをはやしながらほんやりをするのが習わしとなっていた。
塞の神神様は、いぢのむさい神様で、尻へとぎくすいで、よきで掘って掘れないで、餅で掘って掘れんでワァイワァイのワァイワイ(山寺)
塞の神のおんばあは、意地のむさいおんばあで、梨の木に上って××××くすいで、隣のぢぢい呼んで来て、うんとこどっこい抜いたとさワァイワァイ、ワァイ(西春近)
せいの神の神様は、いじのむさい神様で、生餅かじりついて、留守にうちょ焼かれたワァイワァイ、ワァイ(荒井・西町)
書初めもこれにくべて、高く燃え上ると字が上手になり、繭玉や稲穂を焼いて食べると風邪をひかない、虫歯にならないといわれ、年寄がこの火にあたり顔をあぶると中風にならないという。焼き残りの注連飾りがあると借金が残るといってきれいに焼いた。現在は
学校教育の一貫としてPTAの指導によって行われる地区が多い。
二十日正月 女のお正月ともいう。簡単に年取りをして、内飾り(注連)や正月一切の飾り物や供え物を取り下げる。繭かき(繭玉)。稲こき(穂垂)、穂垂(本垂)たおしを穫り入れと言って片付ける。内飾りを賽の神でどんど焼をするが、門松もこの日にどんど焼をする習わしもあった(西箕輪・中坪・横山)。女の人たちは繭ねりをし、近所の人(女衆)を招待してお正月の残り物で馳走作りをして年賀で一日を楽しみ、正月の疲れを忘れ女の正月を味わうのであった(昭和一五年ごろまで)。二十日でお正月は終るといい、年取り魚の鰤の頭や骨を入れて大根の煮こごりを食べ「頭の正月」ともいった。
年祝に関する習俗(「人の一生」 P1241)
厄年
数え年男二五歳・四二歳、女一九歳・三三歳を大厄と称し、それぞれの年の前後を前厄・後厄という。女が一九歳になると、「娘十九は孕むか死ぬか。」と言い、男は四二歳を重視する風がある。正月十四日の晩、普段用いた茶椀に歳の数だけ銭又は大根を賽の目に切って入れ、道祖神に投げ砕いて厄落としすると共に、東筑の牛伏寺への参詣も昔からあり、氏神で厄除けの御祓いを受け、節分に沢尻のお不動様や村内の祈祷寺(円福寺・真福寺など)で厄除けの祈祷をしてもらう習慣は現在まで続いている。厄年の人たちが講談師や浪花節をやる人を頼んだり(美篶)、御日待や、親類友人を招いて盛大に酒宴を催し厄落しをする風もあった。男二歳、女三歳、男女七歳も厄年である。
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以上である。旧長谷村において「道祖神」を「どうろくじん」と称している地域があることに触れたが、ここでも文字碑の最古のものに「道六神」があるとしており、「道祖神」を「どうろくじん」と呼んだ形跡がうかがえる。『伊那市史』における記述上の表現は「道祖神」はそのまま「道祖神」であり、旧長谷村などと同様に「さいの神(せいの神ではない)」という地名についても触れている。「でえもんじ」という行事を行う西箕輪上戸は羽広のすぐ南隣にあたり、ここでも「でえもんじ」に掲げる灯篭に「道祖神」と書いている。また、東春近あたりでも小正月に柱立て風の飾りをしており、「塞の神」と称しながらも「道祖神講中」という掛軸を掛けており、「道祖神」が一般的と捉えられる。では火祭りにつてはどうか、項としては「どんど焼き」と表記しており、その冒頭で「せいの神、またほんやりとも称している」と加えている。ここに「せいの神」が登場しており、「せいの神」という呼称も存在することをうかがわせる。そしてその際の囃しことばが、旧長谷村では「どうろくじん」であったものが、「塞の神」と代わっている例が多いようで、この「塞の神」の変化が「せいの神」なのだろうか。いずれにせよ、『伊那市史』からは「せいの神」という呼称が「一般的である」という印象にはならないだろう。
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