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「せいの神」という違和感から その5

2023-05-14 23:44:21 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その4から

 その2からその4まで、平成の合併前の旧市町村史誌を紐解いて「道祖神」及び小正月における火祭りの呼称の扱い方を捉えてみた。それらからうかがえる大勢は「道祖神」は「どうそじん」あるいは「どうろくじん」が主であり、火祭りについては「どんど焼き」と捉えているという印象が強かった。おそらくわたしはこのあたりの印象から、「せいの神」という呼称に違和感を抱いたと言っても良いのだろう。とはいえ、「塞の神」という捉え方も少なからずあることと、あえて「せいの神」と称したイベントを実施している事実から、もう少しほかの資料を紐解いて検証してみることとする。

 旧伊那市内では区誌なるものがたくさん刊行されている。現在全ての区を対象にしてそれぞれ区誌が編まれているわけではないが、昭和の合併以前の旧村単位のものがいくつか見られることから、それらに記述されている「道祖神」や火祭りを、その2からその4と同様に引用してみることとする。まず天竜川左岸、いわゆる旧高遠町や旧長谷村に隣接する地域の例を下記に示す。


『狐島区誌』(狐島区誌編纂委員会 昭和50年)
 七日 どんど焼き、松おさめ、さいの神などといい、神棚に供えた注連や戸口に立てた松や注連飾りなどを子供達が集め大正の初期頃までは山に行き、又近くでは西町上段にあった松林の立ち枯れとなった松三本(一五年生位)を所有者から頂いて、事前に少年団で切り出し準備しておき当日河原(天竜川)に運んで組み立てて、集めた注連をゆわいつけ点火しどんど焼きをしたのであったが、その後桜橋付近の河原にて積みあげて焼いた。又昭和四二・三年頃からは区内の人家離れた休耕田等を借りて青少年健全育成推進員の指示により実施するようになった。このように時代の変遷と共に状況も変ってきた
が、今もって残っているのはその残火で餅を焼いて食べるのがどんど焼きの楽しみの一つである。
 厄落し 男は二五才と四二才、女は一九才と三三才で、男の四二才と女三三才とを大厄とした。厄年の者のある家では厄落しといって、たそがれ時に自分の常用の飯茶碗(年取りをすませた)に自分の年令の数だけ一厘銭(最近は一円)や大根を細かに切りしものを加えて入れ区内の道祖神へ行き厄に負けないようにと祈りを捧げて、道祖神めがけて叩きつけて、眼をつむり後へ向き、人にあわないようにと、急いで帰宅する。


『日影区誌』(長野県伊那市日影区・日影区誌刊行委員会 平成7年)
ドンド焼き
 子供は早朝から各家庭をまわり、飾ってある松や〆飾りを取り集め、一定の場所にとどける。
 かねて用意の松生木を一〇本位立て、これに松や〆飾を吊り廻し、火をつけて焼く。
 火の勢いにつれて集った子供達は、元気に声を揃えて歌う。
 「セイの神の神様は イジのムサイ神様で生餅かじりついて ワイノワイ ワイノワイ」
 子供はその火で生餅を焼き楽しんだ。


『東春近村誌』(東春近村誌編纂委員会 昭和47年)
十四日
道徂神飾り 賽の神前へ五色の紙を、青竹に結び。御幣と五色の柳と五色の短冊にて飾り柱に立つ
二十日
鏡餅開き、稲扱き、穂垂倒し、賽の神飾倒し、ドンド焼き道祖神前にて七五三縄等集め焼く


『富県のくらしと行事』(富県歳時記編集委員会 平成4年)
どんど焼き
 どんど焼きは、正月に迎えた歳神様を炎とともに山へ送る火祭りの行事であるという。昔、左義長といって正月十九日に青竹を立てて正月の飾り物を燃やした宮中の儀式からきており、せいの神、三九郎ともいわれる。ふつう、道祖神の近くの道路の辻で行われた。
 十四日の午後から、子供たちが大正月の松飾り、神棚の古いお札などを集め、それを高く積み子げて火をつける。子供たちはそのまわりを囲んで、道陸押笑いといわれる囃唄を歌いながら燃やした。このおきで繭玉や餅を焼いて食べた。これを食べると虫歯にならない、風をひかないなどといわれて子供たちはみんなたくさん食べた。
 また一日に書いた書き初めの紙を持っていって燃やし、煙で高く上がれば上がるほど字が上手になる、といって喜んだ。

どんど焼きの唄(○は各地区共通)
○せいの神の神様は(どうろく神の―桜井)
         (ばばあは―福地)
○いじのむさい神様で(ばばあで―福地)
○生餅かじりついて(じんだ餅食って―新山・福地)
○山椒の木のぼって、べべとぎくすいで
 あとで家焼かれた―(新山)
 まだ息しれねえ―(桜井)
 ほってもほってもほり切れん(貝沼・福地)
 となりのじいさん呼んできて(貝沼・桜井)
 まだ刺ぬけねえ、ええんやわあと泣いてた。(新山・桜井)
 とんがりちんぼで引きぬいた(貝沼)
 大川の闇がどんどの火に迫る 句


『みすゞ』(美篶村誌編纂委員会 1972年)
 一四日
 当日は塞の神といって大正月や小正月の飾りものを道祖神の前で焼くのが例で、こんな時が子ども会に入る節でもあった。焼き終わるとその炭火で繭玉などを焼いて、子どもどうしで食べるのが楽しみの一つ。
 厄落としは前にも述べた通り、一月一四目の晩道祖神へ日頃使っている飯茶碗へ自分の歳と同数の銭や大根の切ったのを入れて投げ、後を振り向かぬように帰った。子ども達はそれを掻き分けて拾うのが楽しみで、その銭は自由に使って良いとされていた。


『手良誌』(手良誌編集委員会 平成24年)
道祖神
 道祖神はさまざまな性格を持ち、人々の生活に深く入り込んでいる。日本在来の「塞のかみ」の信仰に中国から伝わった信仰が加わったため、多くの顔を持つようになったのであろう。
 道祖神碑は集落のはずれや辻にあって、村へ悪霊が入ることを防ぐとともに村人や旅人を守る神と考えられている。安産や子育て、そして夫婦和合の神でもある。小正月のどんど焼きは道祖神の前で行う火祭りであり、厄年の男女はこの道祖神に茶碗をぶつけて厄落としをした。文字碑もあるが多くは自然石で、しかも凹凸の激しい奇石が多い。このことからも古くから信仰されてきた民間信仰であることがわかる。

○郷之坪の道祖神祭り
 二月七日の夕方、道祖神碑の前で火を焚き、直会も行う。
○米垣外の道祖神祭り
 二月七日夕方、供えた餅の交換をする。
○境の道祖神祭り
 二月七日(お事始め)の夕方。
○どんど焼き
 小正月の行事であるが、今は正月七日以後の最初の日曜日に実施している所が多い。かつては道祖神の碑の前で行う所が多かったが、交通事情や火災の危険などから今は小集落単位で公民館・集会所の庭や、空き地などで実施している所が多い。道祖神の前で行う伝統的な形態を最もよく残しているのは、蟹沢のどんど焼きである。
 門松、注連縄、だるま、そして子どもたちの書き初めの作品などを集めて燃やす。この火で焼いた胼を食べると一年間、風邪をひかないといわれている。

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 以上である。とりあえず図書館に並んでいた区誌を片っ端から開いて民俗に関する記述があれば道祖神関係の箇所を拾い上げてみた。記述としてはそれほど多くはなく、『手良誌』が最も内容が濃いだろうか。これらからうかがえることは、「道祖神」はやはり「どうそじん」が主であり、「塞の神」という捉え方をする例も見受けられる。そうしたなか、囃し言葉の中に「せいの神」が登場するところが日影や富県にみられ、「せいの神」という捉え方が少なからずあることはここからうかがえるわけである。とはいえ、「せいの神」が主たる呼称であるというふうには、やはり扱えないだろうということが言えそうだ。

続く


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