Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

絵島の墓と“六道井”

2022-02-13 23:47:51 | 地域から学ぶ

蓮華寺山門

 

本堂

 

七面堂

 

絵島の墓碑

 

 絵島生島事件によって高遠に幽閉された絵島のことは、この地域の人々にはよく知られている。その絵島の墓は、高遠の蓮華寺にある。あまり意識していなかったが、高遠の街から満光寺を経て藤沢谷へ向かうと、すぐに小さな沢を渡る。その先に蓮華寺があり、さらに香福寺と続くが、ずっと街から家並みが続いているからすべて高遠だと思っていたらそうではないことをつい先日知った。小さな沢は猪鹿沢といってこの沢の東側は旧長藤村になる。したがって蓮華寺は地籍で言うと長藤なのである。

 蓮華寺を入り、本堂から裏手へ回り上っていくと、七面堂に至る。延宝8年(1680)に建立されたというから建物としても比較的古いもので、蓮花寺の中でも最古という。その右手に絵島の墓がある。墓碑には「信敬院妙立日如大姉」刻まれている。その右に「寛保元辛酉」、左に「四月十日」とある。27年という長きに幽閉されたもので、亡くなったのは61歳だったという。大正5年(1916年)に高遠を訪れた田山花袋に発見されるまで、永らく放置されていたという絵島の墓であるが、実はこの墓碑のあるすぐ裏を、最近触れている六道井が流れている。写真の背後に獣除けの防護柵が見えるが、その向こう側はもう六道井の管理道である。時代的に捉えると、埋葬されたのが寛保元年1741年というから、六道井開削の110年ほど前のこと。ようは今のような玉垣が整備された絵島の墓ではなく、ただ墓石が立てられていた背後に大きな井が開かれたということになる。六道井はこのように高遠の街の山すそ、というよりは人々を見下ろす高台を、縫うようにして等高線沿いに流れている。この井が人々と山を分ける境界線のような様相を今は見せている。果たして開削された当時、このような寺の背後を通すことはどうだったのだろうか。もちろんこの事業は、高遠藩が行ったものとして知られている。財政難の中、開田をもくろんで開かれた。とはいえ、現在もそうだが、生活用水としての比重が高い高遠の街での井の存在。井筋完成の後「心得」なるものが申し渡されたといい、その中に「新開はいっさい認めないが、平常の飲料水には使用しても良い」というものがあったという。ようはさらなる開田はできないが、飲料水としての利用は認められていたということなのだろう。


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