2/27(月)の話になる。この日福井県から、足羽川で架け替えの進む幸橋(さいわいばし)のデザイン案が公表された。この案は昭和初期のイメージを基にしており、路面電車が通る中央に、街灯と架線を配置したセンターポール方式となっている。デザインの詳細は、福井県のHPにもあり、現在この案に対する県民からの意見を募集している。
・福井県のHPの「県民パブリックコメントの募集」より参照可能
ここで、昨年福井の歴史についての講義を受けていたので、その時に使った講義資料を見返してみた。すると明治40年代の地図によれば、幸橋は昔からあった橋ではなく、「幸橋(新橋)」と記述されていた(ちなみにまだ路面電車は通っていない)。江戸期(文化8年)の地図を見れば、幸橋の姿はなく、その西側に九十九橋があるのみであった。この九十九橋は半石半木の奇橋として有名であるが、少なくとも慶長期には橋があったようで、福井がまだ北庄と呼ばれていた時代から存在していたことになる。現在こそ交通の流れは幸橋が主となっているが、幸橋がない時代では、北陸街道が通る九十九橋が交通の要所となっていた。城下町の形態も、九十九橋のある福井城西側(現在の順化、照手など)に北陸街道に沿って城下町があり、現在の幸橋北側は福井城の縄張りであった。
普段気に留めなければ、今も昔も変わりない町の形態であったように思ってしまうかもしれない。しかし、実際に古地図などを見てみると、実は全く異なっている部分もあることに気付かされる。また、現在の都市の構造に、過去の痕跡が残されている例も少なくなく、それが自分としては面白く感じている。
話が別の方向にそれてしまったが、幸橋が、単に大動脈として交通を支える、立派で近代的な橋となるのではなく、古き良き時代の形に再生され、新たな町のシンボルとなる、というのも一つの考え方であり、賛成したい。
・福井県のHPの「県民パブリックコメントの募集」より参照可能
ここで、昨年福井の歴史についての講義を受けていたので、その時に使った講義資料を見返してみた。すると明治40年代の地図によれば、幸橋は昔からあった橋ではなく、「幸橋(新橋)」と記述されていた(ちなみにまだ路面電車は通っていない)。江戸期(文化8年)の地図を見れば、幸橋の姿はなく、その西側に九十九橋があるのみであった。この九十九橋は半石半木の奇橋として有名であるが、少なくとも慶長期には橋があったようで、福井がまだ北庄と呼ばれていた時代から存在していたことになる。現在こそ交通の流れは幸橋が主となっているが、幸橋がない時代では、北陸街道が通る九十九橋が交通の要所となっていた。城下町の形態も、九十九橋のある福井城西側(現在の順化、照手など)に北陸街道に沿って城下町があり、現在の幸橋北側は福井城の縄張りであった。
普段気に留めなければ、今も昔も変わりない町の形態であったように思ってしまうかもしれない。しかし、実際に古地図などを見てみると、実は全く異なっている部分もあることに気付かされる。また、現在の都市の構造に、過去の痕跡が残されている例も少なくなく、それが自分としては面白く感じている。
話が別の方向にそれてしまったが、幸橋が、単に大動脈として交通を支える、立派で近代的な橋となるのではなく、古き良き時代の形に再生され、新たな町のシンボルとなる、というのも一つの考え方であり、賛成したい。
城の橋通りは、県道福井加賀線のうち、「福井市西方から幸橋北詰交差点」の区間がそう呼ばれている、らしいです。なにしろ福井市内の道路名称については、昨年の編入学以後に初めて知ったもので、私も聞かされた範囲でしか存じ上げません。
福井城と福井駅の位置関係、これも詳しいことは分かりません。ただ、福井城の西と北は城下町となっていたこともあり、人家の少ない城東側がルートとしてとられたのでは、と私なりには考えています。また北陸本線の足羽川鉄橋も、足羽川と荒川(福井城近辺除きほとんど蛇行)の接する地点ぎりぎりにあり、地形上の理由でこういうルートになったのかも知れません。詳しくは博物館や資料館などで、詳しい資料を探す必要があると思います。
福井城と福井駅、確かに近いですが、駅開業当初はすぐ西に一番大きい堀である百間掘が迫っており、地図から今よりも近い位置関係にあったことが伺えます。
2月27日に発表(ニュースで見ましたが)って…それ以前の段階で、幸橋のたもとに完成予想図が出とった筈ですけど…
とにかく、今現在…
北詰…武生方面、城の橋通り行き、大名町行き2車線の状態、その上手に福鉄の線路…
そう言えば気になっとった事が…
福井城と福井駅の間がやたらと近い…
城の橋通りって一体どの辺までなのか…
御存知ならお聞かせ頂きたいんですけど…