ある雑誌で
「今一番大事なものって何ですか?」
という質問回答記事がありました。
若い人向けの雑誌のためか
恋人、お金、友達、家族、仕事、貯金・・・。
いろいろ書いていました。
どれも「なるほど~」と感じる回答でした。
ただ・・・
「友達」については少々異論もあり・・・。
あくまで
個人的見解ですが・・・、
いろいろ検索していると
時々ブログに引っかかる。
芸能人他一般人含めていろいろ千差万別・・・。
そのブログを
何気に読んでいると・・・、
よく記入されている「友達」についての言葉。
“友達でいてくれてありがたい” だとか、
“考え方が一緒で安心できる” だとか・・・、
そういったたぐいの言葉がよく目につく。
友達ってありがたい・・・
なんだか・・・、
うそっぽい・・・。
そんな感覚がヒシヒシと感じられる。
思い起こせば
小さかった時のこと・・・
5、6才か、
小学1~3年生くらいか、
子供のころ・・・・。
公園や空き地、学校のグランドで遊んでいると
いつの間にか
一緒に遊ぶ「ともだち」ができていたような気がする。
ドッジボールにしても
タイコベースにしても
サッカーにしても
かくれんぼにしても
遊ぶにつれ
人が多くなっていたような気がする。
そのうち
顔見知りになり
一緒に遊ぶのが当然のようになって来た頃
遊びの勝ち負けでけんかになって
一旦は疎遠になるけど
ちょっとした切っ掛けで
また一緒に遊んでいたような気がする。
その時はまだ子供だったけど
友達でいてくれて感謝するだとか
一緒にいて安心できるだとか
そんな感覚は一切なかったような気がする。
この
「子供時代の感覚」こそが
友達だと私は思うのです。
一緒にいて安心?
ホントに安心ならそんなこと考えない。
どこかで
その人に気を遣っているから
今日一日その人が気分を害さずに
自分の思うような
行動をしてくれたから
(言動をしてくれたから)
安心した
という言葉が出て来たのでは?
たぶん
相手の顔色ばかり見て
気を遣いすぎる性格なんでしょう・・・。
人間関係は
ギブ&テイク
人としての敬意さえあれば
感謝はいらない。
「いる」とすれば
結婚式のスピーチや
その人のいないところで
その人の家族に対して伝えればいい。
同じぐらいの年だと
負けず嫌いの性格がすぐに出て
で けんかして・・・
なのに
すぐ仲直りして・・・。
好き勝手言い合って・・・。
意気投合するときもあれば
議論して
白熱するときも多々ある。
腹立つときもあるわけで・・・。
でも
その立腹は
嫌っているわけではない微妙な腹立たしさで・・・。
だから
私はすぐに友達に対して
「感謝」という言葉が出てこない。
むしろ「感謝」をすぐ使う人は
本当の友達がいない人では?
、と私は思う。
友達なんて
作ろうと思ってできるものでもないし
知らないうちに
できているものだと私は思います。
時には
親友と思っていても
実は
相手は本心を隠して上部だけで付き合っていたり・・・
人の心など
そんな簡単に分かり合えるものではない。
ましてや
「考え方が一緒」など絶対にありえない。
たぶんこう言いたい「↓」のだと思う。
「私の考え方の一部の絶対に譲れない部分が一緒」
これが
言いたいことだと思います。
自分と完全に一致する考え方の人は
この世にはいません。
長年連れ添った夫婦でも
絶対にない。
どちらかが我慢しているに過ぎない。
世の中見てみると
盛大に結婚式をしても
何年か後に離婚するカップルが多い。
その離婚理由に
「心のすれ違い」というのがある。
たぶんこういった人は
夫婦でも
友達でも
仲が良いこととは、
なんでも考え方が一致することだ
と思っているふしがある。
それが正しいこと
と思っているふしがある。
あるわけない完全の一致、
それに普通を求め、
普段の生活にそれを追及する。
できるわけないのに・・・。
全部でなく
一部・・・
「絶対に譲れない自分の考えや理念の一部が一致すれば
あとは違ってもいい」
そう思うことで
本当の友人・伴侶が出来るのではないでしょうか。
私はそう思います。
そこの前提にあるものは
人としての敬意だけです。
気を使うことも
すぐに感謝の言葉を羅列することもない。
あっ
ここでいう「感謝」は
食事時
一緒のテーブルで
「お塩取って」「サンキュー」
で使う感謝の言葉ではありません。
こういうのは「敬意」に入りますのであしからず。
ことわざに
「巧言令色、仁少なし(こうげんれいしょく)」というのがあります。
言葉巧みで、
無理に人から好かれようと
愛想を振りまく人物には、
誠実な人間が少なく、
人格として大事な「仁徳」に欠けるという意味。
対義語として
「剛毅木訥、仁に近し(ごうきぼくとつ)」というのがあります。
意志が強く俗事に同ぜず、
素朴で困難にひるまず「仁徳」があるという意味。
本当の友達として選びたい人は
どちらでしょうか?
考え方が「合う」こと、
媚を売り取りつくろった甘言に
良い気分にされていることと
素朴で飾り気のない真意から来る理念で
意気投合することと
錯覚してはいないでしょうか・・・。
耳の痛い意見具申、
ねたみから来る誹謗中傷的批難と
仁徳から来る諫言を
混同していないでしょうか・・・。
話が脱線しましたが
元に戻して
雑誌の話。
私が答えるなら・・・・。
「大事なものは何ですか?」
それは・・・・、
「自分の弱さを知ること」かな。
若い時の自分は
自分の弱さを認めることは
とても難しいことでした。
弱さを認めると
そこで自分が自分に負けてしまい
男としての価値が
無くなってしまうと思っていました。
そのことが、
無理してがんばる原動力になったことは事実です。
でも、しんどかった・・・。
今思うと
弱さを認めても
負けるわけでも何でもなかった。
それに何に負けるのか・・・漠然としたもの・・・。
自分の弱さを認めて
笑い飛ばしていれば
もっと笑顔が輝いていたのかもしれません。
。。。。
「今一番大事なものって何ですか?」
という質問回答記事がありました。
若い人向けの雑誌のためか
恋人、お金、友達、家族、仕事、貯金・・・。
いろいろ書いていました。
どれも「なるほど~」と感じる回答でした。
ただ・・・
「友達」については少々異論もあり・・・。
あくまで
個人的見解ですが・・・、
いろいろ検索していると
時々ブログに引っかかる。
芸能人他一般人含めていろいろ千差万別・・・。
そのブログを
何気に読んでいると・・・、
よく記入されている「友達」についての言葉。
“友達でいてくれてありがたい” だとか、
“考え方が一緒で安心できる” だとか・・・、
そういったたぐいの言葉がよく目につく。
友達ってありがたい・・・
なんだか・・・、
うそっぽい・・・。
そんな感覚がヒシヒシと感じられる。
思い起こせば
小さかった時のこと・・・
5、6才か、
小学1~3年生くらいか、
子供のころ・・・・。
公園や空き地、学校のグランドで遊んでいると
いつの間にか
一緒に遊ぶ「ともだち」ができていたような気がする。
ドッジボールにしても
タイコベースにしても
サッカーにしても
かくれんぼにしても
遊ぶにつれ
人が多くなっていたような気がする。
そのうち
顔見知りになり
一緒に遊ぶのが当然のようになって来た頃
遊びの勝ち負けでけんかになって
一旦は疎遠になるけど
ちょっとした切っ掛けで
また一緒に遊んでいたような気がする。
その時はまだ子供だったけど
友達でいてくれて感謝するだとか
一緒にいて安心できるだとか
そんな感覚は一切なかったような気がする。
この
「子供時代の感覚」こそが
友達だと私は思うのです。
一緒にいて安心?
ホントに安心ならそんなこと考えない。
どこかで
その人に気を遣っているから
今日一日その人が気分を害さずに
自分の思うような
行動をしてくれたから
(言動をしてくれたから)
安心した
という言葉が出て来たのでは?
たぶん
相手の顔色ばかり見て
気を遣いすぎる性格なんでしょう・・・。
人間関係は
ギブ&テイク
人としての敬意さえあれば
感謝はいらない。
「いる」とすれば
結婚式のスピーチや
その人のいないところで
その人の家族に対して伝えればいい。
同じぐらいの年だと
負けず嫌いの性格がすぐに出て
で けんかして・・・
なのに
すぐ仲直りして・・・。
好き勝手言い合って・・・。
意気投合するときもあれば
議論して
白熱するときも多々ある。
腹立つときもあるわけで・・・。
でも
その立腹は
嫌っているわけではない微妙な腹立たしさで・・・。
だから
私はすぐに友達に対して
「感謝」という言葉が出てこない。
むしろ「感謝」をすぐ使う人は
本当の友達がいない人では?
、と私は思う。
友達なんて
作ろうと思ってできるものでもないし
知らないうちに
できているものだと私は思います。
時には
親友と思っていても
実は
相手は本心を隠して上部だけで付き合っていたり・・・
人の心など
そんな簡単に分かり合えるものではない。
ましてや
「考え方が一緒」など絶対にありえない。
たぶんこう言いたい「↓」のだと思う。
「私の考え方の一部の絶対に譲れない部分が一緒」
これが
言いたいことだと思います。
自分と完全に一致する考え方の人は
この世にはいません。
長年連れ添った夫婦でも
絶対にない。
どちらかが我慢しているに過ぎない。
世の中見てみると
盛大に結婚式をしても
何年か後に離婚するカップルが多い。
その離婚理由に
「心のすれ違い」というのがある。
たぶんこういった人は
夫婦でも
友達でも
仲が良いこととは、
なんでも考え方が一致することだ
と思っているふしがある。
それが正しいこと
と思っているふしがある。
あるわけない完全の一致、
それに普通を求め、
普段の生活にそれを追及する。
できるわけないのに・・・。
全部でなく
一部・・・
「絶対に譲れない自分の考えや理念の一部が一致すれば
あとは違ってもいい」
そう思うことで
本当の友人・伴侶が出来るのではないでしょうか。
私はそう思います。
そこの前提にあるものは
人としての敬意だけです。
気を使うことも
すぐに感謝の言葉を羅列することもない。
あっ
ここでいう「感謝」は
食事時
一緒のテーブルで
「お塩取って」「サンキュー」
で使う感謝の言葉ではありません。
こういうのは「敬意」に入りますのであしからず。
ことわざに
「巧言令色、仁少なし(こうげんれいしょく)」というのがあります。
言葉巧みで、
無理に人から好かれようと
愛想を振りまく人物には、
誠実な人間が少なく、
人格として大事な「仁徳」に欠けるという意味。
対義語として
「剛毅木訥、仁に近し(ごうきぼくとつ)」というのがあります。
意志が強く俗事に同ぜず、
素朴で困難にひるまず「仁徳」があるという意味。
本当の友達として選びたい人は
どちらでしょうか?
考え方が「合う」こと、
媚を売り取りつくろった甘言に
良い気分にされていることと
素朴で飾り気のない真意から来る理念で
意気投合することと
錯覚してはいないでしょうか・・・。
耳の痛い意見具申、
ねたみから来る誹謗中傷的批難と
仁徳から来る諫言を
混同していないでしょうか・・・。
話が脱線しましたが
元に戻して
雑誌の話。
私が答えるなら・・・・。
「大事なものは何ですか?」
それは・・・・、
「自分の弱さを知ること」かな。
若い時の自分は
自分の弱さを認めることは
とても難しいことでした。
弱さを認めると
そこで自分が自分に負けてしまい
男としての価値が
無くなってしまうと思っていました。
そのことが、
無理してがんばる原動力になったことは事実です。
でも、しんどかった・・・。
今思うと
弱さを認めても
負けるわけでも何でもなかった。
それに何に負けるのか・・・漠然としたもの・・・。
自分の弱さを認めて
笑い飛ばしていれば
もっと笑顔が輝いていたのかもしれません。
。。。。